カラー時代に相応しい色再現を実現した
ツァイス光学技術の結晶
Carl Zeiss Jena PANCOLAR 50mm F2
PancolarのレビューについてはMarco Kröger 氏のWEBサイトzeissikonveb.de[1]が充実しており、今回の記事の作成にあたっては同氏の記事を参考にさせていただきました。Kröger氏に敬意を表します。
パンカラー誕生前夜──光学革命の幕開け
1930年、ドイツ・ショット社のエドウィン・ベルガー(Edwin Berger)は、後のレンズ設計に多大な影響を与える革新的なガラス硝材を発明しました[2]。その硝材は、高屈折率かつ低分散を特徴とするバリウムフリントガラスと、高屈折率かつ高分散を特徴とする重フリントガラスで、これら2種のガラスに金属酸化物を添加することで、光学性能を飛躍的に向上させることが可能となりました。この技術革新は、当時の光学界にとって画期的なものでしたが、1930年代のドイツは経済的混乱と政治的緊張の中にあり、こうした高性能ガラスの安定供給は技術的にも体制的にも困難を極めました。量産化には、1939年にショット社が確立した新たな製造技術の登場を待たねばならず、写真用レンズへの実用化が本格化するのは第二次大戦後のこととなります。
分断された国、分岐する技術──そして新たな指導者の登場
戦後、ドイツは東西に分断され、光学技術の発展もそれぞれ異なる道を歩むことになります[5]。ショット社は西ドイツに拠点を置きながら、戦前から蓄積された技術を活かし、SK21、SK22、SK24、SSK10などの特殊光学ガラスを次々に開発・供給しました。同時に、反射防止コーティング技術の進歩と普及が進み、これら二つの技術革新は1950年代以降のレンズ構成の在り方を根本から変えることになります。こうした技術的潮流をいち早く捉え、戦後間もなく35歳という若さで東ドイツ・カール・ツァイス人民公社のレンズ設計部門長に就任したのが、ハリー・ツェルナー博士(Harry Zöllner, 1912-2007)です。彼は新素材と新技術を積極的に取り入れ、戦後の東ドイツにおける光学設計の方向性を定める中心的存在となりました。そして、ツェルナー博士の設計した代表的なレンズの一つがパンカラー/パンコラー(PANCOLAR)50mm F2です。
ゾナーはやめだ!ガウスを作れ!!
ゾナーと言えば戦前から続くカール・ツァイス製レンズ群の中で最高位のランクに位置づけられるブランドで、その名は光学性能と技術革新の象徴として広く知られていました。戦後においてもその評価は揺らぐことなく、ツァイスは世界初の一眼レフカメラCONTAX Sの開発に際し、標準レンズとしてゾナー57mm F2の開発を進めていました[3]。このレンズは一眼レフカメラに対応できるようバックフォーカスを延長した画期的なもので、当初のツァイス・イコン社は戦後もゾナーブランドを標準レンズに据えるべきだと主張しました。
しかし、1949年に発表されたハリー・ツェルナーの論文[4]が、この流れを決定的に変えます。彼は将来的な標準レンズの発展において、ゾナータイプよりもガウスタイプ(ビオター)の方が、画質・機能の両面で圧倒的に優位であると強調し始めたのです。ツェルナーの主張は、光学ガラスの性能向上やコーティング技術の進化が、ガウスタイプと性能向上により有利に働くという技術的根拠に基づいていました。さらにその背景には、ライツ社のズミタールやシュナイダー社のクセノンといった、すでに高い潜在力を秘め存在感を強めつつあったガウス型レンズの台頭もありました。実際に、彼の論文から数年後にはライツ社のズミクロンやフォクトレンダー社のウルトロンといった革新的なレンズが市場に登場し、先見の明が証明されます。 ツェルナーの提言を受け、1949年にツァイス・イコン社はゾナー57mm F2の開発を中止し、ガウスタイプへと軸足を移しました。このような経緯を経てツァイスのウィリー・ウォルター・メルテが戦前の1930年代に開発したガウスタイプのビオターに注目が集まります。
ビオターは戦後も販売が続けられ、一眼レフカメラのEXAKTA用交換レンズとして米国市場では一定の人気がありました。しかし、1930年代の古い設計では光学的な限界が見え始めていたため、1950年代初頭からツェルナーを中心に「次世代型ビオター」の開発が本格的に始まります。
新しいレンズには、より高い解像力、良好な色収差補正、コンパクトな設計、そして一眼レフに不可欠な十分なバックフォーカスを持つ50mmの標準レンズが求められました。しかし、バックフォーカスを確保しつつ焦点距離を50mmに抑えることは、当時のツァイスの光学技術をもってしても困難な課題でした。
パンカラーのルーツはトロニエのクセノンなのか?
一眼レフカメラに搭載されるレンズは、ミラーの可動スペースを確保するために、バックフォーカス(後方焦点距離)を長く取る必要があります。この点においては焦点距離が長いレンズほどマージンがありで有利ですが、標準レンズの焦点距離では稼働スペースの確保がギリギリとなります。例えば、古い一眼レフ用レンズのビオターが50mmではなく、やや長めの58mmになっているのは、この制約を考慮した結果です。
1950年初頭、この制約を回避できた50mmの標準レンズが1本だけ存在しました。それがシュナイダー社のクセノン 5cm F2で、1934年にトロニエによって設計されたレンズです。クセノンではガウスタイプの前群にある張り合わせ面を分離することでバックフォーカスを延長し、一眼レフカメラのEXAKTAに対応可能な構造を実現していました。驚いたことにツェルナーはこのクセノンに注目し、1952年に同レンズの設計をベースとしたビオター50mm F2の試作V130を開発します[1]。このレンズには新開発のランタン系ガラス「SK21」と重フリントガラス「F16」が使用されており、ツァイスとしては史上初めて一眼レフ用レンズで焦点距離50mmを達成した瞬間でした。直接的あるいは間接的にでも、トロニエの関与があったことが事実なら、これは歴史に埋もれていた驚くべき事実ですが、これは戦後の分断で著しく力を落としていたツァイス・イエナ社にとっては仕方のないことでした。かつてのビオターの設計士メルテと助手のロバート・ティーデケンはそれぞれ米国と旧ソ連に出国し、ツェルナー率いる設計陣は失われたダブルガウスの設計技術を取り戻すところから新型レンズの開発をスタートさせています。なお、ツェルナーとトロニエはフォクトレンダー社時代の在籍期間がオーバーラップしており、接点があった可能性は充分に考えられます(Marco Kröger氏の仮説:zeissikonveb.de[1]参照)。
しかし、V130をベースにした新型レンズの製品化は実現しません。V130の完成から数週間後、シュナイダー社のクレムトとマッハーがこれに極めて類似した構造を持つレンズの特許を先に公開し、V130の製品化をブロックしてしまうのです。
特許の壁を超える――試作レンズV136の革新性、新型レンズの登場
それでもツェルナーは新型レンズの開発を諦めませんでした。1929年からツァイスに在籍していた同僚エドゥアルト・フーベルトの協力を得て、試作レンズV130の屈折力特性を維持しつつ、分離していた張り合わせ面を元に戻す新たな設計アプローチを模索します。この試みは成功し、1953年には焦点距離50mmの新しい試作レンズV136(50mm F2)が完成します。そして、この試作レンズの登場こそが後のパンカラーの誕生に繋がる原点となるのです。
V136の設計は、従来の前群・後群が対称構造を持つビオター型レンズとは一線を画していました。前群の張り合わせ面すべてが物体側に湾曲しており、独自の非対称構造を持っています。
この「張り合わせ面を戻す」というアプローチは、外見上は元のオーソドックスなレンズ構成に戻ったように見えますが、決して設計技術の後退ではなく、特許の壁を乗り越えた革新的な解決策でした。事実、その後にシュナイダー社も、これと類似した試作レンズを開発し、新型クセノン50mm F1.9として製品化しています。試作レンズV136をベースとする改良はさらに続き、新型レンズの登場は、もう目の前のところまで来ていました。ツェルナーとフーベルトは歪みの補正、周辺光量の改善などに取り組み、翌1954年に新型レンズのベースとなる試作レンズV172を完成させます。このレンズを基に翌1955年夏までに最初の市販モデルが製造されました。ただし、当初のレンズ名はパンカラーではなく、ツァイスが戦前から継承してきた伝統的なブランド名の「ビオター」が当てられたのでした。
このビオター50mm F2は1956年の暮れから1957年に初頭にかけて、少量の100本のみが製造されています。何をモタモタしていたのでしょう。じつは、この頃ちょうど東西に分裂したツァイスの間で、製品名の商標権を争う激しい裁判がまさに始まろうとしていたのです。
「ビオター」はダメ、「フレクソン」もダメ。そして「パンカラー」へ
裁判の行方次第では、西側諸国向けの輸出製品に「ビオター」の名称を使用できなくなる可能性がありました。この問題を回避するため、ツァイス・イエナ社は急遽、新型レンズの名称を「ビオター」から「フレクソン」へと変更する決断を下します。当初出荷された100本には「ビオター」の名が冠されていましたが、市場に流通する直前で回収されたと見られ、これを裏付ける製品個体は現在までに一本も確認されていません。翌月には、名称をフレクソンに改めた1000本が、一眼レフカメラのプラクチナ用として改めて市場に供給されました。
しかし、ほどなくして「フレクソン」が米国エクソン・モービル社の製品(炭化水素溶剤)として、既に商標登録されていることが判明します。これにより、主要な輸出先である米国市場への展開が不可能となり、ツァイス・イエナ社は再び名称変更を余儀なくされてしまいます。
2度にわたる名称変更の末、同社が最終的に辿り着いたブランド名が「パンコラー(パンカラー)」でした。その語源には定説はありませんが、「Pan=すべて」+「-color=色彩」+[ar(接尾語)]に由来し、「全色を忠実に再現するレンズ」という理念が込められていたと考えられます。この「パンカラー」への名称変更は1960年から始まりましたが、同年には光学設計にも重要な改良が加えられています。具体的には、正エレメントに用いられていたガラス硝材が従来のSK21から、より高性能なSK24へと置き換えられました。ただし、この設計変更が名称変更と同時に行われたかどうかについては、現存する資料が乏しく、明確な証拠は確認されていません。
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Pancolar 50mm F2(1960年発売)構成図: 設計者はH.Zollner とE.Hubert |
パンカラーの登場――カラーバランスを中和せよ
パンカラーという名称には、「あらゆる色を忠実に再現するレンズ」という理念が込められていたと考えられます。すなわち、カラー撮影の普及に応えるべく、それまでモノクロ時代には問題視されなかったカラーバランスの偏りを補正する新技術が導入されているのです。
1950年代に入り、カラー写真が一般化すると、レンズの色再現性は光学設計における重要課題として浮上しました。とりわけ、当時のカラー撮影で主流であったカラーリバーサルフィルムは、現像過程で色補正を受け付けないため、レンズがニュートラルな色を再現できないことは致命的な欠点となり得ました。設計者たちは1950年代初頭にはすでにこの問題を認識していましたが、モノクロ撮影が主流であった時代には、色の偏りは実用上大きな障害とはならず、容認されていました。
ところが、カラー写真が一般層にまで広まった1950年代半ば以降になると、この問題は次第に大きく取り上げられるようになり、顕在化していきました。とくに課題となったのが、フレクソンやフレクトゴンのような高性能レンズに使用されていた特殊光学ガラスです。このガラスは青色スペクトル領域の透過性が低く、写真が黄味を帯びる傾向がありました。この性質は、単にガラス素材を変更すれば解消できるというものではありませんでした。高性能な特殊光学ガラスの多くに共通して見られる組成由来の性質です(脚注※1)。
この課題に対して、技術者たちはコーティング技術を用いたカラーバランスの補正という新たなアプローチによる解決策を発明しました。当時主流だった単層(シングル)コーティングは、特定の波長の光に対して透過性を高めるものであり、膜厚をその波長の1/4に設定することで、狙った光の反射を抑えることができます。たとえば、青色光の透過性を高めるように設計されたコーティングは、黄褐色光の反射率を高める効果を持ちます(脚注※2)。ガラスに対する透過特性がこれとは逆であることを利用し、両者を巧みに調整することで、青と黄のバランスを中和することが可能になりました。このように、ガラス素材とコーティング技術の相互作用を精密に制御することで、カラー写真時代に相応しい高い色再現性を実現したレンズが完成しました。これこそがパンカラーなのです。
パンカラーは単なるレンズではありません。戦争を越え、分断を越え、技術者たちの情熱と知恵が結実した「光学技術の結晶」なのです。ゼブラのデザインも超かっこいいですし。
※1 Zeiss Jenaのシングルコーティング時代のレンズはカラーバランスが温調系にコケやすいことが昔から知られています。これは、高性能な特殊光学ガラスが青色の光を透過させづらい性質に由来しています。
※2 Zeiss Jenaの単層コーティングはアンバー色であることが知られていますが、これはコーティングで青系の短波長光を優先的に透過させるよう最適化している結果です。
参考文献・資料
[1] zeissikonveb.de(Marco
Kröger)
[2] 「写真レンズの歴史」 キングスレーク著
[3] DD4228 vom 24. November 1951
[4] Harry Zollner,
Jena/ Leistungsprufung von Fotoobjektiven (1949)
[5] 「東ドイツカメラの全貌」:一眼レフカメラの源流を訪ねて リヒァルト・フンメル他 朝日ソノラマ
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Pancolar 50mm F2:フィルター径 49mm, 絞り F2-F22, 最短撮影距離 0.5m, 絞り羽 6枚, 重量(実測) 190g, 設計構成 4群6枚ガウスタイプ, 1959年製造(発売は1960年), PANCOLARとしてはM42マウントとEXAKTAマウントの2種が存在する |
★入手の経緯
レンズは国内外の中古市場に豊富に流通しています。ネットオークションでは1.2万円~2万円程度、ショップでも2~3万円程度と、とても買いやすい値段です。エキザクタマウントとM42マウントの2種があり、M42マウントの個体のほうが使用できるカメラか多いぶん人気があり、値段も少し高めです。ただし、光学設計は同じなので、ミラーレス機で使用するのでしたらエキザクタマウントの個体のほうが断然お得です。
ちなみに後継モデルのPancolar F1.8はもう少し高く、ネットオークションでは2.5万円〜3万円、ショップでは4万円くらいです。F2のEXAKTA用モデルが穴場的な値段設定であることが、よくわかります。
★撮影テスト
ガウスタイプに特有の弱点とされるコマ収差はよく抑えられており、開放から像の滲みはほとんど見られません。ピント面は画面の四隅に至るまで高いシャープネスを維持しており、スッキリとした透明感のある描写とともに、高い解像が得られます。
背景のボケには時折ざわつきが感じられ、開放では過剰補正の反動と思われる描写の硬さが現れることがあります。ただし、ぐるぐるボケや放射状の乱れが目立つことはなく、全体として品位のあるボケ描写です。周辺光量の低下もほとんど気にならず、自然なトーンで画面を構成します。
本レンズは、シングルコーティング時代のZeiss Jena製レンズに共通する傾向として、発色がわずかに黄味を帯び、写真全体が温調寄りのテイストになることがあります。これは、正レンズに採用されている高性能なバリウム系重フリントガラスの影響によるもので、このガラスは青系の短波長光を透過しにくい性質を持っています。
この発色の偏りに対しては、コーティングに逆の透過特性を持たせることで中和を図る技術が用いられていますが、その補正の度合いはメーカーごとの設計思想に委ねられています。ツァイス・イエナは温調方向への偏りを許容する傾向があり、コーティングによるカラーバランス補正は比較的マイルドに施されていると考えられます。ちなみに、シュナイダーやローデンストックは寒色系に転ぶ傾向が強く、より強めのカラーバランス補正が施されている印象です。
★Fujifilm GFXによる写真作例★
今回ご紹介するレンズは設計にかなりの余裕があり、中判イメージセンサーを搭載したFUJIFILM GFXシリーズやHASSELBLADのデジタルカメラにおいても、暗角(いわゆるケラレ)が一切生じることがありません。四隅で若干の光量落ちはあるものの、そのまま撮影に使用することが可能です。ただし、レンズ本来の設計基準から外れるため、画面四隅では画質の低下が認められます。
この問題に対しては、アスペクト比の調整によって効果的な対応が可能です。具体的には、撮影フォーマットを35mm判に近い対角線画角を持つフォーマットへと変更することで、レンズの設計意図により近い条件で使用することができます。たとえば、65:24や1:1といったアスペクト比を採用することで、画面周辺の描写が設計基準から大きく逸脱することなく、安定した画質を得ることができます。大は小を兼ねる!。
このような工夫により、中判デジタル機においてもレンズの性能を最大限に引き出すことが可能となります。
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F4, GFX100S(Aspect ratio 65:24) |
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F4, GFX100S(Aspect ratio 65:24) |
F5.6, GFX100S(Aspect ratio 65:24) |
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F2(開放) GFX100S(Aspect Ratio 3:2) |
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F2(開放) GFX100S |
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F2(開放) GFX100S |
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F2(開放) GFX100S |
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F2(開放) GFX100S |
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F2(開放) GFX100S |
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F2(開放) GFX100S(Aspect Ratio 3:2) |
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F2(開放) GFX100S(Aspect Ratio 16:9) |
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F2(開放) GFX100S(Aspect Ratio 16:9) |
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F2(開放) GFX100S(Aspect Ratio 16:9) |
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