おしらせ


2024/01/06

Ernemann Ernostar 100mm F2 (converted M42)

ERNOSTAR特集 PART 1 

写真表現の新境地を切り拓いた

高速レンズの革命児
 
Ernemann Anastigmat ERNOSTAR 10cm F2

人間の目は素晴らしい機能を持っています。目の水晶体を変形させ、遥か遠くの海原を横切るヨットや手元の小さな印刷活字に自在にピントを合わせることができます。目の虹彩を伸び縮みさせ取り込む光量を調整し、浜辺の陽光の下でも夜の薄暗がりのなかでも、不自由なく像を捉えることができます。写真機は後を追うように、こうした機能を獲得してゆきました。
薄暗い光のなかで撮影のできるカメラを写真家たちが手にしたのは1920年代になってからのことです。最初にあらわれたのは「目に見えるものなら何でも写せます」というキャッチ・フレーズで1924年に登場したERMANOX(エルマノックス)というレンズ固定式カメラで、今回ご紹介するERNOSTAR(エルノスター)100mm F2という高速レンズが搭載されていました。レンズの開放F値は当時としては格段に明るく、エルノスターの登場により、夜間や屋内でも三脚や特別な照明に頼ることなく、手持ちでの高速撮影が可能になったと言われています[1]。それまでの写真撮影といえば、三脚を立て、光量が少ない環境下ではフラッシュを発光させる必要がありました。たとえ目には見えても、それを暗い場所で写真に収めるのは容易なことでなかったのです。被写体はポーズを決め、そのまま露光の間静止していなければならず、このスタイルが当時の写真撮影の一般常識でした。時代は過渡期にあり、この状況に目を付けたのがユダヤ系ドイツ人でフォト・ジャーナリストのエーリッヒ・ザロモンという人物です[2]。ザロモンはしばしば正装して外交官の会議や裁判所におしかけ、隠し持ったエルマノックスでヨーロッパの政治家達の活動や歴史的な瞬間を記録、当時のグラフ誌に写真を次々と発表していきます[3]。なにしろ外交官達は誰一人として自分たちが被写体の中心にいることを自覚していなかったので、自然な表情、ありのままの姿を写真にさらすこととなります。人間の真の姿を捉えた「ザロモンの隠し撮り」はヨーロッパ中の人々を熱狂させ、後のジャーナリズムのあり方を変える新しい潮流を生み出したのです[2,3]。
エルノスターを用いたザロモンの創作活動は写真術の可能性に対する人々の認識を広げる契機となり、「キャンディッド」という造語とともに写真文化に対する大きな波及効果を生み出しました。キャンディッドとはポーズを取るなど作為的に作り込んだ美しさではなく、自然な表情、気取らないありのままの美しさを表現することを指しており、現在のスナップ・ショットによる写真表現の原点とも言える思想です。写真文化にかつてこれほどまで影響を与えたレンズが、あったでしょうか?
フォトジャーナリストのE. Salomon(左)と レンズ設計士のL. Bertele(右)のイラストで、AIが写真から生成したものです。ザロモンのほうはイケメンに描かれすぎている感があります・・・


ERNOSTAR

レンズはかつてドイツに存在したERNEMANN(エルネマン)という光学機器メーカーから供給されました。同社は後の1926年にツァイス・イコン社の設立母体として他社と合併し消滅します。この会社でレンズの設計を行っていたのがベルテレ(Ludwig Bertele)という設計士で(上図・右)、後にツァイスでゾナーやビオゴンといった歴史的名玉を開発します。ベルテレはエルネマン社で同僚のクルーグハルト(August Klughardt)と明るいレンズを設計、1921年に「エルネマンの星」と名付けられたエルノスター(ERNOSTAR)を開発します[4]。レンズは1924年に固定レンズとしてエルノクス(後にエルマノクスに改称)に搭載され登場しました。

レンズの設計は下図に示すとおりで、1894年にCooke(クック)社のDannis Taylorが開発した3枚構成のトリプレット(図の青)の前方に凸レンズ(図の赤)を1枚追加し屈折力を強化した4群4枚構成です。追加した凸レンズ(図の赤)が球面収差とコマ収差を増大させないアプラナティック条件を満足するため、トリプレットを起点としながらも収差を増大させずに明るくできる合理的な構造になっていました。ただし、全体で見ると前群に正の屈折力が集中しすぎた構造になっており、歪曲収差や像面湾曲をなんとかしないといけません。エルノスターでは後群に1枚ある弱い正レンズを絞りから遠くに配置することで、実質凹レンズのような働きに変え、糸巻き状の歪曲を緩和するとともに、テレフォト性(光学系全長を焦点距離よりも短くする性質)も実現しています[5]※1。画角を広げさえしなければ歪曲収差と像面湾曲は目立たないレベルに抑えられているのです。少ない枚数ながら、高い合理性を持つ優れた設計構成といえます。


※1 トリプレットの前方に正の凸レンズを据えた構成としてはErnostarの登場よりも早い1916年にC.M.Minorが設計した米国Gundlach社のUltrastigmatの特許がある。ただし、Ernostarでは前方に据えた正の凸レンズがこの時代としては革新的なアプラナティック条件を満足しており、前群側に正パワーが集中したことによる糸巻き状の歪曲を補正するため後群が離れた位置に据えられているなど大幅な進歩が見られ、Ultrastigmatとは一線を画する設計であった。この種の構成がUltrastigmat型ではなくErnostar型と呼ばれるようになった所以はこうした事情からきているものと考えられる。

Ernostar 100mm F2の設計構成。文献[4]からのトレーススケッチです。左が前方で、右がカメラの側となっています


参考文献・資料
[1]ライフ写真講座『カメラ』
[2]Erich Salomon Photographien 1928-1938 (Berlinische Galerie 2004)
[3] Leica Barnack Berek Blog: Eric Salomon - The First Modern Photojournalist-
[4]イギリス特許GB186917(1921), Pat. DRP468499 (1924) DRP458499?
[5]レンズ設計の全て 辻定彦 電波居新聞社

Ernemann Anastigmat ERNOSTAR 10cm F2: 最短撮影距離 1m, 絞り羽 12枚, 重量(改造品)640g, フィルター径 54mm前後(特殊), 絞り指標 F2 - F36, 本品はマウント部はがM42に改造されている。焦点距離100mmのレンズにしてはバックフォーカスの短さが印象に残る




入手の経緯
レンズはオールドレンズ愛好家のlensa5151さんからお借りしたものです。経年を経た個体であるにも関わらず状態はたいへん良好で、はじめから現代のカメラで使用することを前提にM42マウントに改造されていました。レンズは希少性からか中古市場では高額で取引されており、eBayで購入する場合にはレンズ単体で2000ドル(2014年時点では1500ドルくらい)、カメラ(Ermanox)とセットでは少なくとも3000ドル程度は用意しなければなりません。eBayには常に数本が売り出されているので、1920年代はよく売れたレンズだったのでしょう。
 
撮影テスト
レンズの定格イメージフォーマットは昔のアトム判(45x60mm)という規格ですので、一回り大きな中判66フォーマット(56x56mm)か、もしくが一回り小さな中判645フォーマット(41.5x56mm)のカメラで用いるのがよさそうです。ただし、今回のお借りしたレンズははじめから35mm判(24x36mm)で用いることを前提にマウント部がM42ネジへと改造されていたので、デジタルカメラのSony A7と銀塩一眼レフカメラ(M42マウント)で使うことにしました。レンズを実写してみたところ、思っていた以上に素直で安定感のある描写であることがわかりました。
発色傾向は温調なうえ階調描写がとても軟調なため、古いレンズらしい奥深い味わいがあります。デジタル撮影、フィルム撮影を問わず、淡く優しい色の出方となりますし、モノクロにも合います。ただし、発色が過度に薄くなることはなく、開放でも力強い色の出方が保たれています。ピント部の解像力は中判レンズとはいえ開放でも十分なレベルで、細部まで緻密に描写しています。背後のボケに大きな乱れはなく安定感があり、稀に2線ボケがみられましたがバブルボケが出るほど硬くはならず使いやすいボケ具合です。なお、近接域では収差変動が起こり、柔らかく綺麗なボケ味になります。ピント部の画質は均一でコマ収差もとても良好に補正されています。開放から滲みは全くなく、スッキリとヌケの良い描写です。カメラが35mmフォーマットなので中央部のみの限定的な評価になりますが、歪みや像面湾曲は目立たないレベルでした。グルグルボケや放射ボケにも全く見られません。機会があれば、より大きなイメージフォーマットを持つFujifilmのGFXでも試写してみたいと思います。1920年代にこの明るさでここまで素直に写るレンズが登場していたのは大変な驚きです。
それでは、デジタルカメラと銀塩カラーネガフィルムによる撮影結果を御覧ください。

F2(開放), Sony A7(AWB): マクロ域で、しかも開放であるにもかかわらず、このとおりにシッカリと写る。なんだかスバラシい性能のレンズである予感がする
F4.5, 銀塩撮影(Fujifilm C200)+Yashica FX-3:ピント部には解像力がありカラーフィルムでの色のりも良い

F3.2, 銀塩撮影(Fujifilm C200)+Yashica FX-3: ほんとうに素晴らしいレンズだ

F3.2, 銀塩撮影(Fijifilm C200)+Yashica FX-3: 


F3.2,  銀塩撮影(Fijifilm C200)+Yashica FX-3: 

F2.8, 銀塩撮影(Fujifilm Vervia 400)+Yashica FX-3: 背後のボケには安定感があります







F2(開放), Sony A7(AWB): ピント部の解像力は開放でも十分にあります
F3.2, Sony A7(AWB):中央部を拡大したものが下の写真



上の写真のピント部の一部を拡大クロップした。やはり緻密な描写です。中判レンズのわりに充分な解像力が得られているのは大変な驚きです




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