おしらせ


2014/04/16

Kilfitt Tele-Kilar 105mm F4 (converted M42)

ある日、ウィーンのカメラオークションにMECAFLEX(メカフレックス)という名の美しい一眼レフカメラが登場した。解説によるとカメラはモナコ公国のSEROA(セロア)社という聞き慣れないメーカーが1958年から1965年にかけて生産した製品とのことである。何が目にとまったのかというと、工芸品と言っても過言ではない見事なフォルムである(こちら写真を含む解説)。大きさは手のひらに収まる程度しかなく、本当に一眼レフカメラなのかと目を疑いたくなるようなコンパクトな造りであるが、搭載されていた専用レンズがこれまたデザイン的に素晴らしく、機能性と美しさを融合させた素晴らしい工業製品なのである一瞬にして心を奪われてしまった。早速調べてみたところ、レンズを設計したのはHeintz Kilfitt(ハインツ・キルフィット)であった。Kilfittはスパイカメラの名機Robotや世界初のマクロ撮影用レンズMakro Kilarを設計した人物として知られている。


時計職人のセンスで名声を築いた
ハインツ・キルフィットの望遠レンズ
Kilfitt Tele-Kilar 105mm F4
Heintz Kilfitt(1898–1973)はカメラとレンズの設計者として2足の草鞋(わらじ)で名声を築いたドイツ人技術者である。戦前の1930年代に手がけたRobot(ロボット)というカメラは流線形の美しいデザインもさることながら、少ない部品で効率よく動き、ゼンマイ仕掛けのスプリングモーターによる自動巻上げ機構を内蔵した革新的な製品であった。このカメラの精巧でコンパクトな造りと優れた機構には当時のLeitzも衝撃を受けたといわれている。おそらく彼が若い頃に時計職人として培ったセンスがこのような優れた製品を生み出すアイデアにつながったのであろう。彼はその後、1947年に欧州の小国リヒテンシュタインでKamerabau-Anstalt-Vaduz (KAV)という会社を立ち上げ、レンズや光学製品の生産に乗り出している。KAV社は1955年に世界初のマクロレンズMakro-Kilar 3.5/40を発売、1959年には米国Zoomar社と協力し世界初のスチルカメラ用ズームレンズZoomar 36-82mmをVoigtlanderブランドでOEM生産するなど、新興メーカーながらも著しい活躍をみせている。その後、会社をドイツのミュンヘンに移転し、社名もKAVからKilfittへと変更している。
同社の光学製品にはデザイン的に独特なものが多く、やはり流線形を基調とする他に類をみない外観が持ち味となっている。レンズとして独特なものはZoomar社との共同開発でKilfittが製造を担当したMacro Zoomar 50-125mm F4Zoomar 36-82mm F2.8、自社のみで生産したヒット作のMakro-Kilar 4cm F3.5/F2.8や同90mm F2.8Kilar 150mm F3.5Tele-kilar 300mm F5.6などがあり、いずれもスタイリッシュな製品である。今回紹介するTele-Kilar(テレ・キラー)105mm F4も素晴らしいデザインで、私の中では鏡胴の格好良さで3本の指に入るレンズだと思っている。この製品はKilfittがモナコ公国のSEROA(セロア)社に設計を売り込んで委託生産させたMecaflex(メカフレックス)という超小型一眼レフカメラの交換レンズで、カメラとともに1958年から1965年頃にかけて市場供給された。製造本数は200本程度と極めて少なく、コレクターズアイテムとなっている。
Tele-Kilarと同等の標準的なBis-Telarタイプ(望遠基本タイプ)の設計構成。構成は2群4枚で左が前方で右がカメラ側: Note that the above figure is NOT the optical construction of Tele-Kilar 105mm itself, but the typical Bis-Telar model corresponding approximately to this lens.
レンズの設計は2群4枚のBis-Telar(ビス・テラー)型で、シンプルな構成にもかかわらずアナスチグマートの要件を満たしている。この設計は1905年にドイツのEmil Busch(エミール・ブッシュ)社が発売した望遠レンズのBis-Telar(K.Martin設計)を始祖としている。前群と後群がそれぞれ正と負のパワーを持つレンズ群の組み合わせになっているため、ペッツバール和を抑えるのは容易で、像面湾曲と非点収差の同時補正が可能になっている。このためピント部は四隅まで均一な画質を保持でき、グルグルボケも抑えられている。ただし、望遠比(全長/焦点距離)が極端に小さいと後群の負のパワーが強くなりペッツバール和がマイナス方向に増大するので、この構成のまま焦点距離の極端に長いレンズが設計されることはあまりない。

入手の経緯
本品は2013年12月にebayを介しフランスの個人出品者から競売により落札購入した。商品の解説は「全て正常に動作する。鏡胴はとてもクリーンで経年劣化は軽く、保存状態は素晴らしい。傷やヘコミはない。光学系はクリーンでクリア、傷、クモリ、バルサム剥離はない。ごく僅かにホコリの混入がある程度である。フォーカスリングはスムーズ。オリジナルボックスが付いている」とのこと。オークションは150ドルでスタートし4人が入札、自動入札ソフトを使い最大入札額を490ドルに設定し放置したところ、翌日になって450ドル+送料30ドルで落札していた。届いた品は記述どうりの良好な状態でホコリの混入も殆ど見られず、デットストックに近い状態であった。製造本数が200本程度と極めてレアなため中古相場は不明だが、認知度か低い上にマウントが特殊なので、需要は少なく、市場に出て来れさえすれば入手の難易度は高くない。少し前に同等の品がイギリスのオンライン中古カメラ店に470ドルで出ていた。

フィルター径:35.5mm, 絞り羽: 10枚, 最短撮影距離: 1.5m, 構成:2群4枚(正負|負正)のBis-Telar型(望遠基本型), 単層コーティング, 絞り: F4- F32, MECAFLEX用,  ごく簡単な方法でマウント部にM37-M42ネジを嵌めM42マウントにコンバートしている。後玉が大きく飛び出しているので、一眼レフカメラで使用する場合にはミラーが後玉に干渉する恐れがある。ミラーがスイングバックするMinolta X-700ではミラー干渉はなかった





撮影テスト
このレンズの設計は24x24mmのスクウェアフォーマットに最適化されており、十分な性能を発揮するには本来の母機であるMecaflexで用いるのが一番良い。一方、デジタル撮影で用いる場合の最良の選択は一回り大きなイメージフォーマット(36x24mm)のフルサイズ機にマウントするか、一回り小さなAPS-C機(24x16mm)にマウントするかのどちらかになる。堅実な写りを求めるならAPS-C機で使用するのが良いが、反対に収差を活かした撮影を楽しみたいならフルサイズ機で使用するのもよい。本Blogではフルサイズ機で撮影テストをおこなっており、レンズ本来の描写設計よりもボケ量と収差量がより大きなものになるので、あらかじめ断わっておく必要がある。

★テスト環境
デジタル撮影: SONY A7(AWB)
フィルム撮影: minolta X-700,  フィルム: efke KB100(クロアチア製ネガフィルム)

Tele-Kilar 105mmは線の太い写りを特徴としているレンズである。解像力は抑え気味で平凡であるが、代わりにハロやコマなどの滲みやフレア(収差由来)はキッチリと抑えられており、開放からヌケの良さが際立っている。逆光にはよく耐え、ゴーストやグレア(内面反射光由来のハレーション)は出にくいため、コントラストは良好で発色もよい。カラーバランスに癖はなくノーマルである。階調は軟らかく、なだらかに変化し、絞っても硬くはならない。望遠レンズに特有の糸巻き歪曲はよく補正されており、全く検出できないレベルである。2線ボケはほとんど見られず穏やかで柔らかいボケ味である。ただし、フルサイズ機で使用する場合には近接撮影時に背景にグルグルボケの発生がみられ、解像力も四隅では低下気味になる。本来は写らない領域なので、これはフェアな画質評価ではない。そこで、画像の側部を落とし定格の24x24mmスクウェアフォーマットでの画質を見てやると、グルグルボケは目立たなくなり解像力も良好である。APS-C機で用いれば本来の描写設計を取り戻し、かなり手堅く写るレンズであることがわかる。単純な構成のわりに優れた描写力を備えたレンズのようである。
このレンズは後玉が小さくバックフォーカスも比較的短いことからテレセン特性が厳しいようで、フルサイズフォーマットのデジタルカメラで撮影すると画像周辺部に顕著な光量落ちがみられる。光量落ちが特に著しいのは絞り開放で遠方を撮影する時である。ただし、絞れば改善し、近接撮影では気にならないレベルにおさまる。フィルム撮影(35mm判)の場合には全く検出できなかった。
APS-C機では手堅く写り、フルサイズ機にマウントすれば収差を引き出すことも可能。Tele-Kilarは一度で二度おいしい、とても楽しいレンズだと思う。
F11, 銀塩モノクロフィルム(efke KB100):  焦点距離が105mmともなれば望遠圧縮効果がはたらき、遠方の景色を大きく見せることができる。絞った時の解像力はなかなか秀逸なようで、浜辺で遊ぶ人の姿がはっきり識別できる。和尚も海かな?
F4(全開), sony A7(AWB): 続いてデジタル撮影だ。このレンズは最短撮影距離(1.5m)の付近でグルグルボケが顕著に発生するので、ポートレート撮影に収差を生かすにはもってこいのレンズである。グルグルが目立つのはレンズ本来の規格をこえる一回り大きな撮像面(フルサイズセンサー)で撮影しているためである。側部を落としスクウェアフォーマットにしてみると、ここまで目立つものではないことがわかる
F8, sony A7(AWB): コントラストは良好で発色はノーマル。よく写るレンズだ

F4(開放), sony A7(AWB): デジタルカメラで中遠景を撮影すると、開放では画像周辺部に光量落ちが目立ち始める。これはレンズのテレセン性が低いためである。深く絞れば改善する。開放でもヌケは良く、コントラストも十分に良い


F4(開放), 銀塩モノクロフィルム(efke KB100):  フィルム撮影の場合、周辺光量落ちは全くみられない。なんだか素敵なコロッケ屋だ



 

2014/04/11

Carl Zeiss Jena Pancolar 55mm F1.4 (M42)

ハイテンションな色ノリで世界を華やかに写しとる
温調レンズの決定版 PART2:
Carl Zeiss Jena Pancolar 55mm F1.4
Pancolar(パンコラー)55mm F1.4は旧東ドイツのVEB Carl Zeiss Jena社が1967年から1971年まで生産した高速標準レンズである。同社が誇る最高級一眼レフカメラのPentacon Super(ペンタコン・スーパー)[4579台生産]に標準搭載され、4年間で5101本が製造された。光学系は4群6枚のダブルガウス型レンズをベースとする5群7枚構成の発展型(下図)で、後群の最後尾に凸レンズを1枚追加し正のパワーを強化することでF1.4の明るさを実現している。このタイプの設計(後群分割型ダブルガウス)にはバックフォーカスを確保しやすいといった長所があり、その後、現代に至るまで一眼レフカメラ用に設計された明るいレンズでは、ほぼ例外なくこの設計方式が採用されている(「レンズ設計のすべて」辻定彦著:7章(2)節参考)。
Pancolar 1.4/55の構成図: 左が前群側で右が後群(カメラ)側となっている。「東ドイツカメラの全貌」(朝日ソノラマ)からトレーススケッチした。構成は5群7枚でダブルガウス型レンズの発展型である。正の凸レンズを黄色、負の凹レンズを水色に着色した
ガウス型標準レンズが基本構成(4群6枚)を維持したまま実現できる口径比は、せいぜいのところ明るくてもF2前後までである。仮にこの構成のまま正パワーを強化し、一段明るいF1.5程度のレンズを実現したいなら、レンズエレメントを肉厚に設計し、かつ屈折面のカーブ(曲率)を大きくすることになる。各エレメントに大きなパワーを持たせ、光学系全体のパワーレベルを向上させるというアプローチである。しかし、パワーの大きなレンズエレメントからは大きな収差が発生するため、このアプローチではAngenieux Type-S 1.5/50 (4群6枚)のような滲みやフレアの多い趣味性の強いレンズとなってしまう。そこで、光学系に凸エレメントを一枚追加し、光学系全体のパワーを強化しながら各部のエレメントのパワーは逆に緩めるという手段が選ばれるのである。この場合、レンズを明るくしても諸収差は一定レベルに抑えることができるので、画質的には有利である。凸エレメントを追加する場所として効率的なのは、軸上光線が高い位置を通る前群最前部か後群最後部のどちらかであるが、このうち前群最前部に配置する場合にはバックフォーカスが短くなり、一眼レフカメラへの適合が困難になる。そこで、本レンズ(上図)のような後群最後部に凸エレメントを配置した構成形態が選ばれるのである。
凸レンズの追加はペッツバール和を増大させるので、放っておくと周辺部の画質はさらに厳しいものとなる。そこで、Pancolarでは凸レンズに酸化トリウムを含む高性能な新種ガラス(低分散高屈折率ガラス)を導入し、この増大を最小限に抑え込んでいる。高屈折率ガラスを導入したことにより、直接的な効果としては画像周辺部の解像力の向上とグルグルボケの抑止、間接的には収差全体の補正力を改善させる波及効果が得られる。しかし、後に酸化トリウムが放射するα線がガラスを黄褐色に変色させる先天性の病気の「ブラウニング現象」が発覚、現在では多くの製品固体でこの病気が進行し、ガラスに黄褐色の変色がみられる。この影響が少なからず撮影結果にも出ており、カラーバランスへの影響は無視できない。フィルム撮影時、特にカラーポジフィルムでの撮影時には黄色転びが顕著にみられ、カラーバランスの事後補正が必須となる。しかし、前向きに考えてはどうだろうか。ブラウニング現象がもたらしたカラーバランスへの影響は、歳月を経ることで獲得できたオールドレンズならではの描写特性と言えるもので、実際に使ってみると思いがけないシーンで素晴らしい演出効果を提供してくれる。フツーに写る無着色なガラスのレンズには決して真似のできない、味わい深い写真効果が得られるのである。
 
紫外線照射によるガラス材の修復
Pancolarのガラスが黄色く色づくのは、ガラス材に含まれる酸化トリウムという放射性物質がα線を放射し、ガラス中に格子欠陥(電子正孔対)を生じさせるためである。これはブラウニング現象、あるいはソラリゼーションと呼ばれ、格子欠陥が光を吸収するためガラスは黄褐色に色づいてみえる。これに対し紫外線を一定時間照射しガラス材を熱すると、電子正孔対からトラップ状態の電子を解放させることができる。格子欠陥は消滅し、Pancolarにみられるブラウニング現象は紫外線の照射のみで除去できるのである

入手の経緯
このレンズはブログの読者の方からお借りした。はじめは何とAngenieux 50mm F1.5(中古相場50万!)をお貸しくださるとの申し出で正直驚いたが、あまりにも高価なレンズのため、万が一の事を考え、こちらから丁重にお断りし、その代わりにこのレンズをお借りしたのだ。生産数5101本とレアなレンズのため中古市場での流通量は少なく、現在の中古相場は1000ドルを超える。ちなみに兄弟レンズのPancolar 75mm F1.4(M42)は生産数550本と更にレアで、ここ最近になってeBayで売り出された個体には10000ドル程度(100万円程度)の値段がついていた。既に売れたようである。
Pancolar 55mm F1.4(M42マウント): フィルター径58mm, 絞り値 F1.4-F22, 絞り羽:8枚構成 最短撮影距離0.39m, 重量400g, M42マウント, 製造: 1967-1971年(1963年設計), 設計者はZeissのEduard Hubert (1964年設計)と言われているが、根拠となる文献を掴んでいないので噂と思ってほしい。製造本数:5101本, Pentacon Super用としてM42マウント用のみが市場供給された



撮影テスト
このレンズが発売された1960年代で口径比がF1.5未満の明るさを実現した写真用レンズには、どこか背伸びをしたような危うさがみられるのが普通である。高い技術力を誇ったZeiss Jenaの製品でさえ開放での描写は穏やかではない。Pancolar 55mmも例外ではなく、開放では抑え切れない収差から像がモヤモヤとフレアにつつまれ、解像力とコントラストに明らかな低下がみられる。発色は淡く、ボケは嵐のように激しい。一方、F2まで絞ると画質は改善し解像力は向上、収差を伴いながら線の細い描写となる。F2.8まで絞るとヌケはよくなり、画質的に充実したレベルに達する。階調は驚くほど軟らかく、トーンはなだらかで深く絞り込んでも硬くはならない。ただし、曇天時に開放でフィルム撮影をおこなうと軟らかすぎてメリハリ感の乏しい描写となる事があるので、使い方には注意を要する。デジタル撮影ならば問題はない。変色したガラス材の影響で発色が黄色に引っ張られ、フィルム撮影時、特にカラーポジフィルムでの撮影時にはその影響を顕著にうける。一方、デジタル撮影ではカラーバランスの補正機能が自動で働き、黄色転びはフィルム撮影の時よりも控えめになる。しかし、それでもなお現像時にカラーバランス補正は必須となるであろう。ボケは柔らかく開放付近ではフレアを纏いながら綺麗に拡散している。開放では距離によってグルグルボケがみられるが、Biotar F2ほど激しくはならず、高性能な硝材が導入されたことによる一定の改善効果がみられる。反対に前ボケには距離によって2線ボケ傾向がみられるとの世評がある(ただし、私は確認できなかった)。もしかしたら開放で意図的に球面収差を補正不足にしたレンズなのかもしれない。この種の補正不足型レンズの特徴は開放で像がソフト、後ボケはフレアにつつまれ大きく柔らかくボケる。反対に前ボケはやや硬めで2線ボケが出る。もう少し撮影テストに時間をかければよかったのが残念ではある。Pancolar 55mmの前ボケについてコメントなどでご教示いただけると幸いである。
vF2.8 Nikon D3 digital AWB→Photoshopのカラー補正を適用(補正前の画像はこちら): 純白の花だが黄色っぽい。ここまで絞るとボケは穏やかで綺麗である

F2.8 銀塩撮影(Kodak Profoto XL100/無補正): 今度はフィルム撮影(ネガフィルム)。こういう被写体ならば黄色転びも大して問題にはならない。とてもいい味を出している
F1.4(開放) Nikon D3 digital, AWB :再びデジタル撮影。Photoshopの自動カラー補正を適用した。補正前の画像はこちら。レタッチで人相に手を加えてある。開放ではさらに黄色転びが激しく、カラー補正を入れてもまだ温調気味だ。ボケはやはり激しいが硬くはない。アウトフォーカス部の像の流れを生かし、被写体に動きを与えている
F2.8, Nikon D3, AWB, Photoshopの自動カラー補正を適用(補正前の画像はこちら): 最短撮影距離でのショット。他の一般的なガウス型レンズと同様に近接撮影では球面収差がアンダー方向(補正不足方向)に大きく変化しており、後ボケはフレアをともないながら柔らかく綺麗に拡散している。ピント部は依然スッキリとしていてヌケは良好だ
 当時のF1.5はアナスチグマートを崩壊させる言わば死線ともよべる口径比だったはずである。技術水準から考えればアナスチグマートが5大収差の全てを満足のゆくレベルで封じ、画質的に健全でいられたのは、F2前後までだったのであろう。これを越えてしまった1960年代のPancolarやContarex-Plannarが画質的に厳しいレンズであったのは確かなことである。しかし、当時のユーザーサイドがこれを拒絶しなかったのはとても興味深いことではないだろうか。私の知る限り55mm F1.4が嫌われ者であったという悪い評判はどこにもみられない。むしろ、ユーザーサイドには限界に挑むスーパーレンズを暖かく見守る広い心があったようにも思える。なぜ嫌われ者にはならなかったのか。恐らく人間の感性には収差の嵐すら写真効果のひとつ、表現の可能性の一形態として受け入れてしまう柔軟性と許容力があったからであろう。これより後もF1.4クラスのレンズは各社から次々と登場しており、このクラスの大口径レンズの需要は現代に至るまで途絶えることなく続いてゆくのである。