解像力優先からコントラスト優先の時代へ
設計理念の変遷を3本のズミクロンが駆け抜ける
Leitz Canada SUMMICRON 90mm F2(2nd); LEICA SUMMICRON-M E55 90mm F2(3rd); Leitz Canada SUMMICRON-R 90mm F2
カラー写真時代の幕開け
1970年はカラー写真がモノクロ写真に代わって写真の主役となる転換点の年でした。同年に大阪で開催された万国博覧会(大阪万博EXPO'70)では記録映画の制作にカラーフィルムが積極的に使用され、宣伝キャンペーンが展開されています。その効果もあって、この年を境にカラーフィルムがモノクロフィルムの販売数を超え、写真と言えばカラー写真をさすまでになります[1]。1972年には米国のイーストマン・コダック社がカラー・ネガフィルムの現像処理方式であるC-41プロセスを採用し、現像処理における世界標準として広まりました。日本の富士フィルムもこの方式と互換性のあるCN-16プロセスを採用、現像処理の統一規格が定まったことで全国各地にカラー写真の現像所が整備され、カラーフィルムの急速な普及を後押ししたのです。写真撮影の中でカラー写真の占める割合は1965年に10%前後でしたが、1970年には40%を超え、1970年代半ばには80%近くまで達しています[1]。この動向はモノクロ写真が中心であったそれまでの写真業界に地殻変動とも言える大きな変化をもたらしたのでした。カメラメーカー各社はカラー写真に最適化された製品を作るようになり、特に写真用レンズにおいては、この時期に設計理念を根本から見直す機運がうみだされます。こうした変化の煽りを最も強く食らったレンズの一つが、ライカのズミクロンでした。
設計理念の変化
モノクロ写真からカラー写真への移行で大きく変わった点として、まず挙げられるのは、フィルムの解像度です。モノクロフィルムはカラーフィルムよりも粒子が細かく、記録密度が高く、3倍程度の高い解像度を持ちます。カラーフィルムの急速な普及により写真用レンズの解像力に対する性能要件は大きく低下し、代わりに発色の良し悪しを決めるコントラストが重視されるようになります。レンズの描写設計で言うならば、多少の解像力は抑えてでもフレアの抑制が優先されるバランス型の描写が求められるようになったわけです。もう少し言い換えると、解像力を重視し球面収差を僅かに過剰補正とするそれまでのトレンドから脱却し、コントラストにも配慮した完全補正または弱補正不足が好まれ、かつ色収差にも配慮した収差設計にする方が時代にニーズにあったレンズになるというわけです。解像力を活かし切ることのできない時代が後から到来してしまったわけですから、さぁたいへん。このような動向の中で、かつて高解像レンズの象徴とまで言われ称賛されたズミクロンに対しても、設計理念の見直しが行われていったのです。
高解像レンズの絶対王者
ズミクロンといえば標準レンズが有名です。特に1959年にライカM2用として発売された初期型の固定鏡筒タイプは、モノクロ写真全盛時代に設計されていることもあり、解像力に偏重した特徴のある画質設計となっています。このレンズの解像力をアサヒカメラのニューフェース診断室が検査したところ、測定器の限界である280本(LP/mm)を超え計測不能と診断されてしまいます[2]。この記録はニューフェース診断室34年間の最高レコードとなり、日本におけるズミクロンの存在を特別なものとしています。ただし、カラー写真時代の幕開けとともに1969年に登場したズミクロン第2世代ではコントラストにも配慮したバランス型の描写設計となり、解像力も180本程度とここまで高いものは作られませんでした[2]。今回取り上げる望遠タイプのズミクロンにおいても、このような設計理念の変遷を見ることができます。

ズミクロンの中望遠モデル
ライカはある時期からズマール、ズミタールなどの名称を改め、口径比F2のレンズをズミクロンで統一しています。ズミクロン・ファミリーには標準レンズに加え広角モデルと中望遠モデルがあり、今回取り上げる焦点距離90mmの中望遠レンズも口径比はF2ですのでズミクロンです。
ズミクロン90mmが登場したのは標準レンズの初期型と同じ1953年でした。度重なるモデルチェンジを繰り返し、現在も第5世代のAPO SUMMICRON-M 90mm F2が市場供給され現役モデルとして活躍しています。各世代の主な特徴は上の表のとおりです。
第1世代と第2世代はいずれも5群6枚の拡張ガウスタイプで、おそらく同一設計です(上図)。このクラスの長焦点モデルにわざわざ望遠比の大きなガウスタイプを導入したのは、ポータビリティよりも画質を重視したためであると考えられています。望遠比と収差量は反比例の関係にありますので、鏡胴を短縮するためパワー配置を前群側に移動して望遠比を小さく抑えると、球面収差の膨らみが増し、解像力が犠牲になります。これは言い方を変えればポータビリティと解像力がトレードオフの関係にあるということです。第1・第2世代は大きく重いレンズですが、画質最優先で設計されたモデルだったわけです。また、この世代のモデルには「空気レンズ」を導入し球面収差の膨らみを抑える工夫が施されており、加えて非点収差もほぼ完璧に補正されています。その結果、解像力は写真の中心部で140本(LP/mm)と長焦点レンズにしては非常に高く、画面平均でも100本と均一性においても優れています[2]。当時のモノクロフィルムの解像度が90本(LP/mm)程度でしたので、これはフィルムの記録密度をほぼ全面にわたり活かす事のできる性能といえます。ただし、カラーフィルムの急速な普及が始まった1970年前後からはMTF曲線にも配慮したコントラスト重視の描写設計に方針転換されており、第3世代・第4世代では基本設計が望遠比の小さなエルノスタータイプ(4群5枚)に変更、前世代よりも鏡胴は格段に短くコンパクトなレンズとなっています。エルノスタータイプといえば線の太い力強い画作りに加え、スッキリとした抜けの良い描写、安定感のある綺麗なボケが特徴で、解像力よりもコントラストで押すタイプの典型です。ズミクロンにおいても第3・第4世代ではMTF曲線が全画面で80%以上を維持しており、明らかにコントラストを重視した設計となっています[2]。解像線の本数は写真の中心部で112本(LP/mm)、画面平均で80本と、やはり第1・第2世代には及びませんが、エルノスター・ベースのレンズとしては、かなり優秀な水準をキープしています。まぁ、当時のカラーフィルムの解像度は30本程度と言われていますので、これでもカラー写真で用いるには過剰な性能であったわけです。画面全体の平均解像度をみてやると、第1・第2世代は100本でしたが、第3・第4世代では80本に落ちています。これをマニアにはおなじみのKatzの公式[4]に当てはめ試算しますと、カラーネガフィルムに記録される像の解像度としては24本が21本に落ちる程度で済んでおり、たいした問題ではなかったようです。
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AIが描いたマンドラー博士 |
今回取り上げる3本のレンズはいずれもライツのマンドラー博士(Walter Mandler, 1922-2005年)による設計です。マンドラー博士はマックス・ベレークから直接指導を受けた最後の弟子と言われています。ライカ在籍時に45を超えるレンズを設計し、ライカM/Rマウント交換レンズシステムの構築に大きく貢献した名設計者として知られています。博士の設計したレンズのデザインは総じてどれもマンドラー・デサインなどと呼ばれることがあるようですが、博士自身はコンピューターを援用したガウスタイプレンズの設計法で学位論文を書いていますので、やはりマンドラーらしさを象徴するレンズは今回のレンズの中では第1世・第2世代であろうと思います。ちなみに、博士自身にお気に入りの1本はどれかと尋ねたインタビュー記事があり、ズミルックス75mm F1.4であると答えています[5]。性能とポータビリティのバランスが絶妙だからとのこと。
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Leitz Canada SUMMICRON 90mm F2(2nd, M-mount) : フィルター径 49mm, 重量 685g, 最短撮影距離 1m, 絞り F2-F22, 絞り羽 12枚, 設計構成 5群6枚(拡張ガウスタイプ), ライカMマウント, 組み込みフード, 販売期間 1963-1980年 |
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Leitz Canada SUMMICRON-R 90mm F2(3rd, R-mount for Leicaflex): フィルター径 55mm, 重量 560g, 最短撮影距離 0.7m, 絞り F2-F16, 絞り羽 8枚, 設計構成 4群5枚(拡張エルノスター), ライカRマウント, 組み込みフード, 販売期間 1970-2000年
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Leica SUMMICRON-M 90mm F2 E55(4th, M-mount) : フィルター径 55mm, 重量 695g, 最短撮影距離 1m, 絞り羽 11枚, 設計構成 4群5枚(拡張エルノスター型) 販売期間 1980-1998年, ライカMマウント, フード組み込み |
★参考文献
[1]「アマチュアカラー写真市場の拡大」富士フィルム50年のあゆみ
[2] アサヒカメラ ニューフェース診断室『ライカの20世紀』朝日新聞社
[3] Serial Number data set, Puts Pocket Pod.pdf
[4] 郷愁のアンティークカメラ III・レンズ編 アサヒカメラ増刊号 朝日新聞社 1993年
[5] Viewfinder Magazine, Vol. 38, No. 2
[6] Leica M-Lenses: Their soul and secrets by Erwin Puts
★入手の経緯
今回取り上げた3本のレンズは2024年11月から2025年3月にかけて、いずれも国内のネットオークションで入手した状態の良い個体です。オークションでの取引相場はMマウントの第2世代が7万円〜9万円、Rマウントの第3世代が7万円〜9万円、Mマウントのモデルが13万円〜15万円程度です。私自身は第2世代を81000円、第3世代を91000円、第4世代を140000円で手に入れました。ライカのレンズは比較的高価であることに加えブランド力が高いため、ネットオークションには転売屋による取り扱い品が多く出回っており、値段の割に検査が甘い傾向にあります。また、初期不良など出品側の原因による返品であっても出品手数料を例外なく落札側に負担させるケースが横行しており、地雷を踏むと手数料だけで1万円も取られてしまいます。オークションの記載はしっかり読んでおくことをお勧めします。また、レンズは流通量が豊富なので、急がないのであれば中古店を回って探すのも良い手です。
★撮影テスト
スペックデータから言ってしまえば、解像力は中央部・四隅ともに第1・2世代の方が第3・4世代よりも良く、非点収差も驚異的に小さいのでグルグルボケは全く出ないと考えられます。逆にコントラストや発色は第3・4世代の方が優れています。事前情報では第1・第2世代の方に何らかのクセがあり、第3・第4世代の方が現代的で大人しい描写という意見が多くありました。ここはガウスタイプとエルノスタータイプの性格の差なのかなと漠然と思い信じ込んでいましたが、実際に使ってみますと、いずれのモデルも開放からスッキリとしたクリアな描写でヌケがよく、解像力・解像感ともに満足のゆくレベルで、クセらしいクセはありません。第2世代は発色が若干落ち着いておりオールドレンズらしさを残しているのに対して、第3・4世代の方がコッテリと色が乗りコントラストの良い現代レンズ的な描写です。ボケはどのモデルも充分に綺麗で距離によらず安定しています。ただし、口径食は明るい望遠レンズ相応に出ており、四隅で点光源からの玉ボケが扁平しています。歪みは第1・第2世代が樽型、第3・第4世代が糸巻き型で、どちらも非常に少ないレベルです。デジタルカメラで使用すると色収差(軸上)がある程度目立ちます。これは第2世代のみならず、第3・4世代でも同様です。
★SUMMICRON-M(2nd)+Nikon Zf★
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SUMMICRON-M(2nd) F2(開放) Nikon Zf(WB: 日陰) |
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SUMMICRON-M(2nd) F2(開放) Nikon Zf(WB: 日陰) |
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SUMMICRON-M(2nd) F2(開放) Nikon Zf(WB: 日陰) |
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SUMMICRON-M(2nd) F2(開放) Nikon Zf(WB: 日陰) |