ツァイス・イコン最後の怪物
コンタレックスの眼玉
Zeiss Ikon社のルードビッヒ・ベルテレ(Ludwig Jakob Bertele)[1900-1985]が戦前に発明したSonnar (ゾナー)は、コーティング技術が実用化されていかった時代に、空気境界面を徹底的に減らすことで内面反射光を抑さえ、高コントラストな画像を得ることを可能にした画期的なレンズであった。レンズは光学系に貼り合わせ面を多く持つのが特徴で、トリプレットを設計の原点に据え僅か3群の構成を貫きながら、大口径を実現している。数あるSonnarシリーズの中でも旧西ドイツのZeiss Ikon社が戦後に開発した85mm F2のモデルは戦前にBerteleが設計したオリジナルの流れを汲み、一眼レフカメラの時代にも生き残った特別な存在で、同シリーズの中で最大の口径を誇るKing of Sonnar(キング・オブ・ゾナー)といった位置づけである。このレンズは1958年に登場した旧西独Zeiss Ikon社の超高級一眼レフカメラContarex(コンタレックス)に搭載され、1958年から1973年までの15年間で7585本が生産されている。しかし、Contarexがあまりにも高価なカメラであったため実用性に乏しく、カメラもろともプロフェッショナルユーザーには広まらなかった。今回取り上げるContarex用Sonnar 85mm F2は旧西ドイツで戦後に再建された新生Zeiss Ikon社が総力を挙げて開発した最高級の大口径中望遠レンズである。新種ガラスを用いて戦前のコンタックス版Sonnarを再設計し、解像力とヌケの良さを向上させている。高いコントラスト性能と鮮やかな発色、開放付近でのなだらかな階調描写、絞った時の高いシャープネス、安定感のある美しいボケなど、非の打ち所ない優れた描写力に対して「コンタレックス・ゾナーこそ史上最高のレンズ」と今も称賛の声は絶えない。製造から半世紀もの年月が経過しているというのに・・・。
★TripletからSonnarへと続く進化の経緯

★撮影テスト
キャノンのレンズ設計者が書いた「レンズ設計のすべて」(辻定彦著、電波新聞社発行 2006年)には3群構成のゾナーについて詳細に記された一説がある。著者はゾナーの光学系について、同一仕様のダブルガウス型レンズに比べコントラスト性能では凌駕するが、解像力では一歩及ばないと述べている。ゾナーの光学系には空気とガラスの境界が6面しかなく、これは高いコントラスト性能を誇るテッサーと同数である。コントラストを低下させる原因であるゴーストやハレーションは主に空気とガラスの境界面で多く発生するが、ゾナーにはこの境界面が少ないうえダブルガウス型レンズと比べてコマフレア(サジタルコマ)が出にくい特性を持つことから、コントラスト性能は非常に高く、発色は鮮やかである。テッサーとの格の違いを感じるのは開放絞りの付近(F2-F5.6)でみられるなだらかな階調描写であろう。光学系の構成図から明らかなように、ゾナーにはレンズ同士の貼り合わせ面が4面もあり、これらで発生する弱い内面反射光が光学系の隅々へと緩やかかつ均一に蓄積される。この独特の機構が絞りを開けた際には活発に機能し、豊富な中間階調を生み出すとともに階調の硬化を防止し、高コントラストでありながらも軟らかい表現を維持できるゾナーならではの特異な描写力を実現させている。一方、F5.6よりも深く絞り込むと内面反射光の減少により階調の硬化がすすみ、テッサー同様に鋭くシャープな描写へと変貌する。
解像力は同クラスのダブルガウス型レンズに一歩及ばない。これは、ゾナーに特有の補正の難しい球面収差(5次の球面収差)があるためである。この難易度の高い収差を攻略するために、Berteleは自らあみ出した独創的な収差補正法を実践している。それは、後群に大きく湾曲したストッパー面と呼ばれる貼り合わせ面(上図参照)を設け、ここから負の球面収差を故意に発生させて、先の5次の球面収差と相殺消去させるというものである。「毒をもって毒を制す」とまで評されたこの過激な補正法は、ろくにレンズ設計の教育を受けないままErnostarを開発してしまったBerteleだからこそ成し得た、型破りな設計技法だった。この補正法によりSonnarの画質は更に向上している。球面収差に球面収差をぶつけることで、ゾナーの描写力は高いところでバランスしてしまったのである。
なお、古いイエナガラスを用いて設計された戦前のゾナーは開放付近でハロやフレアが発生しやすく、色収差も目立っていたが、戦後に新種硝子を用いて再設計されたコンタレックス・ゾナーでは非点収差が大幅に改善し、球面収差もやや改善。ハロはほぼ完全に抑制され、ヌケがよくなり、解像力も向上している。コンタレックス・ゾナーは設計構成のバランスが良好で包括画角にも無理がないことから、大口径レンズによくあるグルグルボケや放射ボケとは全く無縁であり、周辺部まで安定した穏やかで美しいボケが得られている。ボケ味はダブルガウス型レンズのようなブワッと拡散する羽毛のようなボケではなく、どこかウェットで重量感のある綿のようなボケ方だ。発色はノーマルで癖などはない。
ゾナーは元々、近距離における収差変動が大きい設計のため、マクロ域の近接撮影は苦手なレンズのはずである。しかし、本レンズは最短撮影距離が0.8mと普通に寄れる設定になっている。これはどういうことなのかと開放絞りで近接撮影によるテストを多数試みたが、像が乱れたりハロがでたりということは一切なく、描写は常に安定していた。光学系の性能的に本来は50mm F1.5を狙えるレンズなので、新種ガラスを導入しながら設計仕様を85㎜ F2と控えめに抑えたContarex Sonnarは、画角的にも口径比的にもかなり余裕があるレンズなのであろう。こうした設計面での余裕が近接域での高い描写力につながっているだろうと思われるが、裏を返せば描写設計にこれくらいの余裕がなければZeissの最高級レンズとしては失格だったとも解釈できる。以下作例。
撮影機材
カメラ:Nikon D3 digital
レンズ:Carl Zeiss Sonnar 85mm F2(改M42 modified from Contarex mount)
F2 Nikon D3 digital AWB: ハロやフレアが全く出ない!。戦前のゾナー、ジュピター9 etc・・・。私の知っている他のゾナー型レンズ(85mm F2)には開放でここまでキッチリと写るレンズは無い。見事としかいいようがない |
F4 Nikon D3 digital, AWB: ギラギラとした晴天下での撮影にもかかわらず階調描写はとてもなだらかで黒潰れはない。コントラストは高く、発色は鮮やかで色のりは大変良い |
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F4 Nikon D3 digital AWB: 逆光でのショット。フードは装着していないもののハレーションやゴーストが出る気配は全く無い。逆光に強いレンズという印象を持った |
F2 Nikon D3 digital AWB: 中間階調が豊富でシャドー部のねばりやハイライト部ののびが素晴らしい |
F2.8 Nikon D3 digital AWB: こちらも背景の濃淡がなだらかに変化している |
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F2(開放) Nikon D3 digital こういうシーンを戦前設計のゾナーで撮影すると、ハイライト部からは必ずフレアがでるのだが、改良版のコンタレックス・ゾナーではそういうことが一切ない |
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F8 Nikon D3 digital AWB: 絞り込めば硬階調となり、近接撮影においてもメリハリのあるシャープな像が得られる |
F8 Nikon D3 digital, AWB: こちらは最短撮影距離での作例。コンタレックス・ゾナーは非点収差がポートレート域で最小になるようチューニングされている。ならばボケ味が乱れるのは近接域以外には考えられないと待ち構えていたが、結果は前ボケ・後ボケともに良く整っており、像の乱れは全く見られなかった |
少し前に取り上げたCarl Zeiss JenaのCardinarは本ブログでは初めてのゾナー型レンズ(3群構成)となりました。このレンズを手にして以来、ゾナーの描写力、特に階調描写の素晴らしさに魅了されてしまいました。これからもゾナー型レンズを紹介していこうと思いますので、とりあえずはロシアのJupiter-3/ 8/ 9を入手してあります。これ以外にも是非これはというゾナータイプ(3群構成)のレンズがありましたら、ご紹介いただければ幸いです。