シュタインハイル社といえば19世紀のドイツ写真工業の中でひときわ大きな存在感をみせたミュンヘンに拠点を置く光学機器メーカーです[1]。創業は1855年と古く、物理学者のカール・アウグスト・フォン・シュタインハイル(Carl August von Steinheil, 1801-1870)という人物が息子のフーゴ・アドルフ・シュタインハイル(Hugo Adolph Steinheil, 1832-1893)とミュンヘンに会社を設立し事業をスタートさせたのが始まりです。息子のアドルフは光学と天文学を専門とする技術者であるとともに、収差研究の第一人者ザイデルの友人でもありました。こうした好条件から彼はレンズの設計法を早い段階で手中に収め、天体観測用の望遠鏡や顕微鏡など計測科学の分野に数多くの光学製品を供給します。アドルフがザイデルの協力のもと1866年に開発した写真用レンズのアプラナートは史上初めて4大収差を補正した画期的なレンズでした。レンズの設計から製造まで一貫生産のできるシュタインハイル社は、19世紀のドイツ光学産業の中で名実ともに大きな存在感を示すようになります。
散り際の鮮やかさ、
シュタインハイル最後の輝き
Steinheil München Macro-Quinon 55mm F1.9(Rev.2)
アドルフの没後から70年の歳月を経た1960年代、カメラの潮流はレンジファインダー機から一眼レフカメラへと大きく転換しようとしていました。シュタインハイル社のレンズ製造本数は戦後の復興景気の波に乗り1955年に年産25万本の大台でピークを迎えますが、ここから僅か5年の間に年産8万本まで落ち込んでいました。会社の存続をかけ経営戦略の見直しを迫られていた同社は、当時の一眼レフカメラの急速な普及がマクロ撮影用レンズの分野に大きな商機をもたらすと予想し、経営を立て直すための大勝負に打って出ます。1963年に同社はフラッグシップであるQuinシリーズの全ラインナップ(広角35mmから望遠135mmまで4製品)にマクロ機能を強化した別バージョンを展開[2]、これから巻き起こるであろうブームの到来に社運をかけたのです。しかも、レンズは2段ヘリコイドを組み込んだ超高倍率で、性能面でも他社の追随を許さない特別仕様になっていました。当時は勿論ですが、今に至るまでマクロ撮影用レンズをここまでアグレッシブに取りそろえたメーカーは他にはありませんでした。しかし、同社が供給した高価なマクロレンズに対する市場の反応は鈍く、マクロ撮影のブームも大きなものにはなりませんでした。1966年に同社のレンズ生産量(年産)は一時1万本を大きく下回る戦後最低水準まで落ち込みます。その後1970年まで1万本強の水準に回復しますが、同社は深刻な経営難に陥ります[1]。
今回再び紹介するのはドイツの老舗光学機器メーカーのシュタインハイル社が1963年に発売したマクロ撮影専用レンズのマクロ・ヴィノン(MACRO-Quinon)55mm F1.9です[2]。同社のマクロQuinシリーズには本レンズ以外にMacro-Quinaron 35mm, Macro-Quinar 100mm, Macro-teke-Quinar 135mmなどがあり、これらは同じ焦点距離を持つポートレート用のQuinシリーズと並行して市場供給されました。レンズ名の由来はラテン語の「5つの」を意味するQuinarius(ドイツ語のQuin)です。レンズの構成枚数にかけた名称ならばQuinarとMacro-Quinarは確かに5枚玉ですが、本レンズは6枚玉なのでつじつまが合いません。もしかしたら「ザイデルの5収差」にかけているのかもしれません。レンズの設計構成は下図に示すような4群6枚のガウスタイプで、ポートレート用のAuto-Quinon 55mm F1.9と同一構成のまま近接域で最高の性能が出せるよう、撮影距離に対する収差変動を予め考慮に入れた過剰気味の収差設計になっていました。鏡胴の造りは見事としか言い様のない素晴らしいレベルです。老舗光学メーカーの根性が入ったレンズといえます。
レンズの特徴はマクロレンズとしては極めて明るい口径比F1.9を実現していること、そして最大撮影倍率が1.4倍もあることです。ここまで高い撮影倍率を実現させるには、ヘリコドによる繰り出し量がかなり大きなものとなり、普通に考えれば困難ですが、シュタインハイル社は2段ヘリコイドという機械的にかなり凝った仕掛けをもつ新しい機構を導入することで、技術的なハードルを乗り越えています。下の写真にはヘリコイドを繰り出したときの様子を段階的に提示しました。一段目のヘリコイドを目一杯まで繰り出したのが左の写真ですが、ここまでくると内部でロックが外れ、二段目のヘリコイドが繰り出せるようになります。二段目のヘリコイドを見一杯まで繰り出したのが右の写真ですが、この状態で撮影倍率は1.4倍に達しています。光学系をこれだけ繰り出した状態でも偏芯を起こさず光学性能を一定水準に保てるわけですから、レンズの製造工程には非常に高い工作精度や精密な組み立て、品質管理が要求されたに違いありません。マクロ・ヴィノンは当時の技術の粋を集めて作られた最高のマクロ撮影用レンズだったのです。
参考文献
[1]STEINHEIL MUNCHNER OPTIK MIT TRADITION
[2]公式カタログ:MACRO OBJECTIVE für EXAKTA, STEINHEIL OPTIK (1966)
今回再び紹介するのはドイツの老舗光学機器メーカーのシュタインハイル社が1963年に発売したマクロ撮影専用レンズのマクロ・ヴィノン(MACRO-Quinon)55mm F1.9です[2]。同社のマクロQuinシリーズには本レンズ以外にMacro-Quinaron 35mm, Macro-Quinar 100mm, Macro-teke-Quinar 135mmなどがあり、これらは同じ焦点距離を持つポートレート用のQuinシリーズと並行して市場供給されました。レンズ名の由来はラテン語の「5つの」を意味するQuinarius(ドイツ語のQuin)です。レンズの構成枚数にかけた名称ならばQuinarとMacro-Quinarは確かに5枚玉ですが、本レンズは6枚玉なのでつじつまが合いません。もしかしたら「ザイデルの5収差」にかけているのかもしれません。レンズの設計構成は下図に示すような4群6枚のガウスタイプで、ポートレート用のAuto-Quinon 55mm F1.9と同一構成のまま近接域で最高の性能が出せるよう、撮影距離に対する収差変動を予め考慮に入れた過剰気味の収差設計になっていました。鏡胴の造りは見事としか言い様のない素晴らしいレベルです。老舗光学メーカーの根性が入ったレンズといえます。
Steinheil Macro-Quinonの構成図:文献[2]に掲載されているものをトレーススケッチした見取り図。設計構成は4群6枚のガウスタイプ。前群と後群のサイズに大きな差がある
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参考文献
[1]STEINHEIL MUNCHNER OPTIK MIT TRADITION
[2]公式カタログ:MACRO OBJECTIVE für EXAKTA, STEINHEIL OPTIK (1966)
左は1段目のヘリコイドを目いっぱい繰り出した状態です。このとき内部でロックがはずれ2段目のヘリコイドが出せるようになります。2段目を目いっぱい出した状態(右)で撮影倍率は1.4に達しています |
★入手の経緯
本品は2009年の11月にeBayを介して米国LAのカメラ業者から僅か375㌦の即決価格(送料込みの総額は400㌦)にて落札購入しました。出品者は誤ってレンズ名をマクロ・テレキナーと記して販売していたのです。しかも、レンズは希少価値の極めて高いM42マウント版です。中古市場に出回っている製品個体は殆どがEXAKTAマウントのモデルですから、M42マウントを実際に目にするのはこの時が初めてでした。これはラッキーと思い二度と訪れないチャンスを逃がすまいと「即決購入(Buy it now)」のボタンを押したところ「あなたがこの商品のページを表示している間に誰か他のバイヤーが購入しようとしている。その購入者は現在、価格交渉中なので早く支払った人のものになる(和訳)」とeBayのエージェントが緊急性を示してきました。一刻を争う事態なので、即決価格で落札しサッサと支払ってしまいました。購入当時の国内相場はexaktaマウントのモデルで10万円、eBayでは700㌦前後です。M42マウント用ともなればもっと高いでしょう。商品の解説は「長い間人気のマクロテレキナー。カビなし、へこみ傷もなし。僅かにチリが混入しているが清掃すれば除去は容易だ。レンズは凄く凄く良い状態で8.5/10ポイント。フードと純正キャップ、ケースが付く」とのこと。解説文で「凄く」を連呼していたので出品者の商品に対する自信を感じました。しかし、届いた品は傷やクモリなど大きな問題こそないものの、レンズ内にチリやゴミの混入が激しく、ホコリまみれの空き家みたいに酷い状態。清掃しなければ撮影はできないため、自宅近くの専門店に持ち込んでオーバーホールしてもらうことになったのでした。
オーバーホールから帰ってきたレンズはクリーンでクリアな状態に蘇りました。レンズを綺麗にして初めて分かったことですが、前玉の中央に点状の小さな打撲傷がみつかりました。レンズというものは清掃して綺麗になると、逆に様々な粗が見えるようになります。もちろん、写りには全く関係のないものです。
このレンズは6年間所持し、ブログ用の作例を撮った後に手放しました。私はコレクターではありませんので、ブログで使用したレンズは基本的に手放します。今所持しているレンズを絶滅させブログをやめるつもりです。レンズはeBayにて入手額400ドルのスタート価格で出品しましたが入札が殺到、途中で「いくらなら売るつもりだ?」とか、「1000ドルで売ってくれないか」など直接交渉のオファーが絶えない大変な人気ぶりでしたが、最後は1300ドルの高値で落札され、次のオーナーの元に旅立ちました。
重量(実測)494g, マウント形状 M42, フィルター径 54mm, 最大撮影倍率1.4倍(ワーキングディスタンス:4cm), 絞り羽 5枚, 絞り値 F1.9-F22, 光学系 4群6枚ダブルガウス型, 2段ヘリコイド仕様, M42, Exakta, Nikon Fマウントが存在する。シリアル番号から1965年前後に製造された製品であることがわかる |
シュタインハイルのマクロシリーズ純正フード。2段構成になっており、1段目で35mmのQuinaron, 2段で55mmのQuinonに対応する。フィルター径(内径)は54mmの特殊な規格である |
★撮影テスト
マクロ撮影用レンズとは言っても口径比がこれだけ明るければポートレート用にも使用できるし、風景撮影にも対応できる広い画角をもっています。画質はやはり近接域でも十分に安定しており、開放からスッキリとヌケがよく解像力やコントラストは十分です。遠方撮影時にもフレアは出ず、とてもよく写るレンズです。
背後のボケはマクロ撮影に特化したことによる反動のため、ポートレート域で硬く、ザワザワと形をとどめた特徴のあるボケ味になっています。一方でターゲットとなる近接域では柔らかい綺麗な拡散に変わります。前ボケは距離によらず柔らかく、きれいに拡散しています。発色はとてもよく、現代のデジカメで用いても色鮮やかな写真が撮れます。さすがに、手持ちで近接域を開放F1.9で狙うのは被写界深度が薄すぎるため困難です。近接撮影の場合は三脚を立てて使うことになります。
F5.6, sony A7(AWB) これは、素晴らしくよく写るレンズである |
F5.6, sony A7(AWB) 発色は良好だ |
F5.6, eos kiss x3(AWB)三脚使用 : これだけ寄ってこの解像力はたいしたもの。フローティング機構のない古典的なマクロレンズとは言え、性能の高さには驚かされる |
F5.6, sony A7(AWB) |
F8, eos kiss x3 (AWB) 解像力、コントラストは十分 |
F5.6, sony A7(AWB) |
★続けて銀塩撮影による結果
F8, 銀塩撮影(Fujifilm C200カラーネガ) |
F4, 銀塩撮影(Kodak Ultramax 400カラーネガ) |
F4, 銀塩撮影(Kodak Ultramax 400): |
F5.6,銀塩撮影(Kodak Ultramax 400) |
F1.9(開放), 銀塩撮影(Kodak UltraMax 400) |
F4, 銀塩撮影(Rollei Retro80S モノクロネガ) |
F4, 銀塩撮影(Rollei Retro80S モノクロネガ) |
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美しいですよね、M42のゼブラ達。
返信削除なかなか店舗に置いていないのでオークションで落とすしかないのが難ですが。
絞り不良はゼブラ柄の持病なのか、悩ましいところです。
このサイト、感染します。
ゼブラ柄が出てきた1950年代後半、カラー撮影の幕開けとともに流行したデザインですので、最新のデジタルカメラに付けて撮影しても、そこそこいい発色を示してくれますよね♪
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