個性豊かな色彩を見せる幻のレンズ

ローデンストック社(G.Rodenstoc社)は1877年に行商人のヨーゼフ・ローデンストックがドイツのヴュルツヴルクに設立し、主にバロメーターや精密機器、測定器、眼鏡レンズやフレームを生産していた。1880年に眼鏡レンズの周縁に黒い溝切りを施して煩わしい反射を抑えた「ディアフラグマ・レンズ」が大ヒットすると欧州やロシアへの輸出が増え、1883年には本拠地をミュンヘンに移転、1893年に新工場を建てるなど事業規模を拡大させていった。また、この頃から製造を開始したカメラ用レンズの売れ行きが輸出を中心に好調で、これによって生まれた利益は当時の事業全体の拡大を下支えしていた。しかし、後の世界恐慌では輸出が急減し4年で62%も売り上げを落とすなど経営が悪化し、銀行からの圧力やナチスドイツ政府による乗っ取りの危機に直面するなど企業としての存続が危ぶまれた。1930年代中期から再びカメラ用レンズの生産が好調となり、この頃にはクラロヴィッドI型・II型という初の自社製カメラも造られている。しかし、レンズの受注先からの圧力により間もなくカメラの製造は停止に追い込まれてしまった。第二次世界大戦に入ると国防省による厳しい監視のもと自由な事業活動が制限され、同社が生産できたものは戦車の照準器や潜望鏡、眼鏡レンズのみに限られた。終戦時にはミュンヘン本社の施設が40%も破壊されていたが、そのわずか4週間後にアメリカ占領地での唯一の大型工場として眼鏡製造の再スタートを果たすと、経営状態は急速に改善していった。1950年代に当時としては革新的だった有名人を起用した広報戦略が効果をあげ、主力商品の眼鏡が大ヒット、終戦直後に200人程度であった社員の数は僅か10年程で10倍以上にも膨れ上がった。今回紹介するヘリゴンはRodenstock社が企業体としての復興を遂げ、絶頂期を迎えていた1956年から1959年にかけて製造された製品である。Rodenstockの台帳を見るとF1.9のHeligonはExaktaマウント用が160本、M42マウント用が3本のマスターレンズを含め合計1039本製造された。かなりレアなレンズである。
その後も同社は大判カメラ用レンズの生産を続けたが、2000年には写真用レンズの開発・製造を行う光学機器部門をLinos AG社(ドイツ・ゲッチンゲン市)に売却し社名もRodenstock GmbHに変更、製造を眼鏡のみに一本化することで、写真用レンズの生産から撤退している。![]() |
米国版のカタログに掲載されていたHeligon 1.9/50(4群6枚)の光学系をトレースしたもの
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Heligonの後玉ガード外し: Heligonにはドーム状の大きなレンズガードがついており、このままの状態で使用するとEOS 5Dなどのカメラではガードがミラーに干渉してしまう。しかし、この後玉ガードはネジ込まれているだけなので手で回して外すことができる。いったん外してしまえば後玉そのものには出っ張りがないため、EOS系を含むあらゆるカメラで後玉がミラーに干渉する心配はない
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★入手の経緯
本品は2009年6月にeBayを介して米国のビンテージカメラ専門業者ゴー・ケビン・カメラから即決価格610㌦(6万円弱)で落札購入した。商品の解説にはMinty/Rare (98% Mint)とあり、届いた商品はまさに新品同様の極上品であった。海外のあるレンズ収集家はブログ上で、M42マウントのHeligonについて「eBayで7年間も購入の機会を待ったが出品されたのはたったの2件だった」と嘆いている。本品は1200本程度製造されたレンズなので、もう少し流通してもよいはずであるが、コレクターが手放さないためなのか市場に出回ることは殆ど無い。中古相場は不明だが、2011年12月に状態の良い品がeBay出品された際には1800㌦の値がついていた。また、2012年4月にヤフオクで「良品」が出品された際には、何と189000円で落札されていた。うーっ、凄い値段。私のレンズも売ってしまおうか悩む。★撮影テスト
Heligonを入手し1年4カ月が経つが、使用する度に個性豊かなレンズであることを実感するようになってきた。本レンズは発色に際立った特徴があり、光の様子で色彩がコロコロと変わる面白さがある。発色についてはシャドー部の青みが強く、したがってその補色にあたる黄色が薄めになる点を押さえておけば、このレンズの性質を把握できる。赤のバランスは明暗に依らず適度だがHeligonを介すとよりビビットに表現される。赤と青の間の紫系中間色には抜群の再現性があるが、青と黄色の間の緑系中間色はカラーバランスが不安定でハイライト部では黄緑、シャドー部では青緑に転ぶなど全く異なる色彩を示す。これら紫系と緑系の2種の中間色は寒暖のどちらにも感じられる特別な色(「中性色」とも呼ばれる)であり色調全体に大きな影響を与える。Heligonのコロコロと変わる不思議な色彩は、明暗の変化に対する青の不安定性に由来していると考えられる。実写ではシャドー部でコンクリートなどの白や灰色基調の色が青く色づいて見える。また、晴天時の日陰や、日没後の色彩が全体的にクールトーン調(冷黒調)に表現される。これに対し、ハイライト部では黄色が強まり、植物等のグリーンや黄緑色に変色する。まるで水彩画で描いたかのような不思議な色彩が生みだされる。コントラストは決して高いとは言えないが、中間階調が豊かで階調変化がなだらかなため、微妙なトーンの表現を得意とする。また黄系統を除けば、全般に難しい中間色の色再現性が際立って優れているのも特徴だ。本レンズは中間階調が豊富なことからも、光の内面反射を効果的に利用した設計になっている。内面反射光の中でも青色成分はレンズ内に蓄積しやすく、これが過度に進行するとフレアや青かぶりとなってしまうが、青の内面反射を限定的に取り入れることで個性豊かな色彩を実現しているのではないかと思われる。★日没間際と曇天下でのテスト・・・光量の少ない条件下では全体的に青にが増しクールトーン調に仕上がる
F2.8 銀塩(UXi-200) 1段絞ればボケ癖については問題ない。端部までよく整った柔らかいボケ味だ.
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★光量の豊富な晴天下でのテスト撮影・・・シャドー部には青みがのこりハイライト部は独特な淡い発色となる。全体として実に個性的な色彩が生みだされる
F8 銀塩(Fujicolor S-400)光量が増えると様子が一変し、緑系中間色が黄色に転んでいる。独特な発色だ
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上段 f2.4 銀塩(Fujicolor S-400) / 下段 F2.8 銀塩(Fujicolor PN400N) シャドー部の青みが強く、ハイライト部の黄色が薄め
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上段 F2.8 銀塩(UXi-200)/ 中段F5.6銀塩(UXi-200) / 下段F2.8 銀塩(PN400N): クールなシャドーと黄色に転ぶハイライトにより、このレンズの個性が最大限引き出され、とても不思議な色彩空間を生む。アウトフォーカス部の緑が不安定な色彩で面白い
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F2.8 銀塩(Fujicolor PN400N) 光の明暗の変化に伴い緑のカラーバランスが不安定に変化している。暗部では青みがかり、明部は黄色化。また、木々の間をすり抜けて入ってくる少し暗めの玉ボケが薄らと青く色づいている。中央の花は白に近い微妙なピンクであるが、しっかりと現物に近い色を再現している
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★撮影機材
PENTAX MZ-3 + Rodenstock Heligon 50mm/F1.9 (M42 mount) + minolta metal hood