戦後に登場した2代目のBiotar 75mm |
被写体の背後で渦を巻く
プラナーという名の先祖の呪縛Carl Zeiss Jena BIOTAR 75mm F1.5
Biotar 75mm F1.5はZeissが戦前の1939年から1969年まで製造していた高速中望遠レンズだ。戦後に2度のモデルチェンジがおこなわれ、戦前のものまで含めると3世代にわたるモデルが存在する。温調のあたたかい発色と収差の効いた物凄いボケ味により、製造から半世紀以上が経過した今も、オールドレンズファンを魅了し続ける個性豊かなレンズとして知られている。光学系の構成は4群6枚のダブルガウス型で、Zeissの技術者のDr. Willy Walter Merte(メルテ博士) [1889--1948]により設計された。MerteはBiotarの他にも数多くのレンズの設計を手掛けている。Biotarには焦点距離の異なる58mmの姉妹品もあり、本ブログの過去のエントリーにおいてもやや詳しく取り上げている。
Biotar 75mmの光学系の断面(トレーススケッチ)。構成は4群6枚ダブルガウス型である。最後部のレンズエレメントを分厚くし正のパワーを稼ぐことで6枚構成のままF1.5の明るさを実現している
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Biotarが物凄いボケ癖を備えるに至った経緯には、このレンズの始祖にあたるPlanar(プラナー)の設計思想や、ツァイスの写真描写に対する理念が深く関わっている。ダブルガウス型レンズの原形であるツァイスのPlanar(1896年発明)は名称の由来から分かるように、像面の高い平坦性と画質の均一性を実現するという設計思想から生み出された。しかし、無理な平坦化は非点収差の増大を招き、被写体の背後のあたりに回転する像の流れ(Planarの呪い)を生んでしまったのだ。これがお馴染みのグルグルボケと呼ばれるもので、この種のダブルガウス型レンズにおいて、オールドレンズファンを狂喜させる原因となっている。グルグルボケの影響を緩和するには像面湾曲を僅かに残すという手もあったが、Planarという名の呪縛にとり憑かれたツァイスはBiotarの開発時においてもその手段をとらなかった。像面湾曲があってはPlanar型と呼ぶわけにはゆかず、「ほぼプラナー型」とか「かなりプラナー型」みたいになってしまう。まぁ、それは冗談であるが、要するにBiotarはPlanarの思想を正しく受け継いだ正統な後継製品なのである。
1939年に登場したBiotarの最初のモデルは重量感のある真鍮製クロームメッキ仕上げの鏡胴で、ボディカラーはシルバー、対応マウントはExaktaと旧CONTAXマウント、絞り機構はフルマニュアル(手動絞り)、最小絞り値はF16という構成であった。初期のロットにはガラス面に光の反射防止膜(コーティング)が無く、逆光撮影時にはフレアが豪快に発生していたようである。コーティングが施されるようになったのは戦時中からである。製造本数は僅か1411本と希少性の高い製品であった。
戦後間もなくモデルチェンジが行われ、後継品として18枚もの絞り羽根を持つ豪華な2代目のモデルが登場した。このモデルからは鏡胴にアルミ素材が採用され、軽量化が図られている。また、最小絞りがF22までとれるように変更された。鏡胴にはまるでユダヤ経の燭台のような被写界深度目盛が大きく刻印され、見やすさとデザイン性を上手く融合させた美しい外観を実現している。2代目では対応マウントにM42、Leica(L39)、PRACTINA用が追加され、EXAKTA用、旧CONTAX用までを含め、少なくとも5種のマウントに対応していた。M42マウント用のものは1948年から1954年までの間に合計数2320本が製造されたと記されている。
1950年代中盤に再びモデルチェンジが行われ、後継品となる3代目のBIOTARが登場した。鏡胴の素材は前モデルと同じアルミ合金であるが、3代目ではデザインが大きく変わり、鏡胴径もかなり大きくなっている。カラーバリエーションはシルバーに加えブラック(希少)の2種が用意された。本モデルでは絞り機構がプリセットに変わり、最小絞りがF16に戻っている。また、絞り羽根の構成枚数が10枚と少なくなっている。M42マウント用の品は1954年から1964年の間に3050本が製造された。Zeissの台帳にはExaktaマウント用の製品が1969年まで製造されたと記録されている。実に息の長いモデルだ。
Biotarにはガラス内に気泡がパラパラと含まれている製品個体が多い。これは製造時の品質管理が悪かったからではなく、均質な加工が難しい高性能なガラス硝材を使っていたためだ。悪い気はしないが、できれば気泡は少ない方がいい。
ちなみに、私が今回入手したモデルは派手なデザインを纏った2代目である。
今回入手した2代目のBIOTAR 75mm F1.5で本品はM42マウント用となる。重量(実測) 398g, フィルター径 55mm, 絞り値 F1.5--F22, 最短撮影距離 1m, 絞り羽18枚.対応マウントは少なくともM42, EXAKTA, 旧CONTAX, Leica(L), PRACTINAの5種がある
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本品は2010年のクリスマスにチェコの中古カメラ専門業者のカメラメイトから1068㌦、送料込みの総額1100㌦で購入した。商品は当初、箱付きで1200㌦にて販売されていた。出品者は値段交渉を受け付けていたので1050㌦でどうかと持ちかけたところ、1150㌦なら良いと返してきた。そこで、ここはと強気になって、送料込みで1100㌦ならどうかとカウンターオファーを返してみたところ、しばらく沈黙。こりゃ、他者の手に渡るかなと諦めかけたところ、次の日の夕方に連絡があり、私のレンズとなった。他にも7件程交渉履歴があったようだが、円高パワーの波に乗り、自分が最高額の交渉をしたようである。ちなみにカメラメイトは店のWEBから即決価格で注文する方が1割程度安く購入できる。カメラメイトのカウンターオファーを呑むくらいなら最初から店のWEBで購入するわい。商品の状態は「A+(Like New)/使用感なし」。この状態で、しかもM42マウントの製品はなかなか出てこない。カメラメイトはそこそこ名の通った店だし、何か問題があれば返品対応も確実なので(実は過去に数回返品した経緯がある)、安心して購入することができた。流通している品の多くがEXAKTAマウントで相場は800㌦から1000㌦位である。M42マウントの品は希少性が高いので、本来はもう少し値が張ると思われるが、流通量が少ないので相場は不明だ。
補足:その後、相場はかなり上昇し、2014年10月現在で状態の良いM42マウントのモデルにはebayで1900ドル(20万円程度)の値がついている。
★撮影テスト
本品の描写の特徴はオールドツァイスらしい温調な発色と、後方アウトフォーカス部で顕著に発生する名物のグルグルボケだ。これを如何に生かすかが、このレンズを使いこなす際のポイントになる。ピント部には芯がしっかりとあり、フォーカスがスッと合うところは如何にもツァイスらしい。球面収差の補正タイプが完全補正型のようで緻密で結像に甘さは無い。ハロやコマはよく補正されており、開放からスッキリとヌケの良い画質である。階調描写は軟らかく、夕方の海岸などで使用すると実に美しいトーンがでる。ピント面後方のグルグルボケに加え像面の平坦性が高いので、前方では放射ボケが出るはずであるが、今回の撮影結果からは検出できなかった。
私的には、このレンズは高スペック(大口径)すぎて使いづらい印象を持っている。被写体との距離によっては像の破たんが大きく、リアリティに欠ける写真になってしまうからだ。大口径レンズには現実空間の一部を非現実な要素によって置き換える強い力(魔力)があり、そこが最大の魅力なのだが、写真である以上は人に理解できるレベルをキープし越えてはいけないラインの内側にいなければならない。ところが、ビオターはそのラインを簡単に越えてしまう。半分現実、半分非現実くらいならまだ理解(共感)できるが、ビオターで撮ると現実空間の大半を非現実の世界に持ってかれてしまうのだ。このレンズには強い魔物がすんでるのであろう。踏みとどまれるかどうかは使い手の力量にかかっているわけで、開放では被写体との距離が問題になる。撮影の際は被写体から一定の距離を保ち続けなければ、かんたんにとり憑かれてしまうだろう。ビオター75mmは明らかに上級者向けのオールドレンズといえる。
私的には、このレンズは高スペック(大口径)すぎて使いづらい印象を持っている。被写体との距離によっては像の破たんが大きく、リアリティに欠ける写真になってしまうからだ。大口径レンズには現実空間の一部を非現実な要素によって置き換える強い力(魔力)があり、そこが最大の魅力なのだが、写真である以上は人に理解できるレベルをキープし越えてはいけないラインの内側にいなければならない。ところが、ビオターはそのラインを簡単に越えてしまう。半分現実、半分非現実くらいならまだ理解(共感)できるが、ビオターで撮ると現実空間の大半を非現実の世界に持ってかれてしまうのだ。このレンズには強い魔物がすんでるのであろう。踏みとどまれるかどうかは使い手の力量にかかっているわけで、開放では被写体との距離が問題になる。撮影の際は被写体から一定の距離を保ち続けなければ、かんたんにとり憑かれてしまうだろう。ビオター75mmは明らかに上級者向けのオールドレンズといえる。
F8 sony A7 digital(AWB)階調は軟らかく、こういうシーンにはとてもいいレンズだ |
F1.5(開放) Nikon D3 digital 今度はグルグル花。友人達から「なにこれ!凄い!」と言われ、注目度満点だった
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F1.5(開放) sony A7 digital(AWB) この壊れっぷりは、超大口径レンズならではの開放描写だ |
F4 Nikon D3 digital (AWB) もともと温調な発色なので白熱灯光源下で撮影すると温かみが更に引き立つ
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F1.5(開放) Nikon D3 digital 開放絞りでもピント部は緻密で甘さはなく、高い要求さえなければ充分に実用的な画質だ
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F1.5(開放) sony A7 digital(AWB) 開放でも中央は高解像で良く写る |
F2 sony A7 digital(AWB) ヌケも良い。でも私的には何か違和感が残る。大口径過ぎるとリアリティが欠け始めるのであろうか・・・ |
F? Nikon D3 digital(AWB) Biotarのボケ味(グルグルボケ)を利用した作例。木の葉の隙間を通ってこちら側に漏れてきた光が、グルグルボケの効果で変形し、木の葉の様な形の浮遊体を生みだしている。オモロイので下に拡大写真も示す
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木の葉状の浮遊体を拡大したもの。緑と白は色の相性の良い組合せなので、こういう使い方ができるとわかったのは一つの成果だ。
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F1.5(開放) sony A7 digital(AWB) もうピントなんて合わなくったっていい |
F1.5 Nikon D3 gidital (AWB) 開放絞りで前方の暗い枝葉をボカしてみた。森の小道を抜けるような作例にしたかったのだが、上手くゆかずにこうなった
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F2? sony A7(AWB) 軟らかい階調描写がたいへん美しい |
★撮影機材
Nikon D3 + Biotar 75mm F1.5
フード: B&W 55mm T メタルフード
フード: B&W 55mm T メタルフード
Biotarの描写から明らかなように、ツァイスはグルグルボケを深刻化させてまで像面の平坦化に拘った。これはある意味でボケ味を軽視していたか、あるいは全く認識していなかったと思われても仕方のない設計方針であった。かつてのヤシカの技術者はこの点を見逃さなかったようである。
ヤシカは1973年から1974年にかけて、ツァイスとの業務提携に向けた最終交渉を進めていた。ヤシカのエンジニアはツァイスから、MTF特性に基礎を置く新しい設計技法など、最先端の技術を伝授されていた。しかし、それらの大半はピント面の画質に偏重したものであったため、ヤシカのエンジニアは「ボケ味」に対してツァイスがどういう認識を持っているのかと詰め寄ったのだ。ツァイスの側は「ボケ味」という得体のしれない観点に困惑し、苦悶の返答を余儀なくされたと言われている。
この出来事が何故、日本のカメラファンの間で今でも語り継がれているのかと言うと、音楽にしても芸術にしても「余白」や「間」という副産物を虚無として恐れ、原稿用紙には余白を設けないといった欧米文化の人々が、アウトフォーカス部にどれだけ強い認識を持っていたのかを問う、一つの象徴的な出来事だったからである。「ボケ」の英語訳はBokehであり、日本発祥の英単語である事はよく知られている。裏を返せば、それに相当する適切な言葉や表現が欧米文化には生まれなかったわけで、かつて欧州で発展した写真工学においても、「ボケ味」に対する配慮が欠落していたのは極自然なことなのであろう。現在の写真用レンズは高級品から廉価品にいたるまで、穏やかなボケ味を普通のことであるかのように実現している。幸か不幸かわからないが、Biotarの力強いボケ味は現代のレンズには備わっていない個性豊かな描写特性となってしまったようである。