おしらせ

2015/04/13

Boyer Paris Saphir 《B》 85mm F3.5

1895年にフランスのパリで創業したレンズ専門メーカーのBOYER(ポワイエ)社。同社でレンズの開発を率いていたのはSuzanne Lévy-Bloch (スザンヌ・レビー・ブロッホ) [1894-1974] という名の女性設計士である[脚注1]。Boyer社のレンズには宝石や鉱物の名称が当てられることが多く、Saphir (サファイア/蒼玉)、Topaz (トパーズ/黄玉)、Perl (パール/真珠)、Beryl (ベリル/緑柱石)、Emeraude (エメラルド)、Rubis (ルビー)、Jade (ジェード/ひすい)、Zircon (ジルコン/ヒヤシンス鉱)、Opale (オパール)、Corail (サンゴ)、Onyx (カルセドニー)などレンズの構成や用途ごとに異なる名がつけられている。Boyer社の詳細については2008年に公開されたDan FrommとEric Beltrandoのたいへん詳しい解説があり、この記事のおかげで長い間謎だった同社の歴史や製品ラインナップの詳細が明らかになった[文献1]。Danは世界的に有名なオールドレンズの研究家である。今回はこの記事を参考にしながらBoyer社が1970年代に生産したPlasmat/Orthometar (プラズマート/オルソメタール)型レンズのSaphir 《B》を紹介する。
 

パリで生まれた宝石レンズ 2
Boyer Paris SAPHIR《B》(サファイア《B》85mm F3.5

SAPHIR 《B》は4群6枚の構成を持つPlasmat/Orthometarタイプの引き伸ばし用レンズである(下図参照) [文献1]。このタイプのレンズは口径比こそ明るくないが画質には定評があり、大判撮影用レンズや引き伸ばし用レンズなどプロフェッショナル製品の分野では今も活躍を続ける優れた設計構成として知られている。代表的なレンズとしてはMeyerのDouble Plasmat F4とSatz Plasmat F4.5 (P.Rudolph, 1918年 DE Pat.310615) [文献2]、ZeissのOrthometar F4.5 [W.W.Merte, 1926年 DE Pat. 649112]、現行モデルではSchneiderのComponon-S F4(コンポノンS)とSymmar F5.6(ジンマー)がある。光学設計の特許としては1903年にSchultz and Biller-beck社のE.Arbeit(アルベルト)がDagor(ダゴール)の内側の張り合わせをはがし空気レンズを入れることで明るさを向上させたEuryplan(オイリプラン)[文献3]が最初である。Schultz and Biller-beckは1914年に当時すでに緊密な協力関係にあったMeyerに買収されており、Euryplanの設計特許は当時Meyerのレンズ設計士だったP.Rudolph (ルドルフ博士)の手によって前後群を非対称にしたPlasmatの開発に再利用されている[文献4]。この種のレンズは写真の四隅まで解像力が良好なうえ色ずれ(カラーフリンジ)を良好に抑えることができ、広いイメージフォーマットの隅々までフィルムの性能を活かしきることが求められる大判撮影や中判撮影にも余裕で対応することができる。また、絞っても焦点移動が小さいため引き伸ばし用レンズとしても優れた性能を発揮でき、この製品分野ではワンランク上の高級モデルに使われる構成となっている。明るさはF4程度までとなるため高速シャッターで手持ちによる撮影を基本とする35mm判カメラの分野で広まることはなかったが、Saphir 《B》は頭ひとつ飛びぬけたF3.5を実現し、同型レンズの中ではFujinon-EP 3.5/50とともに突出した明るさとなっている。レンズの名称はもちろん宝石のサファイア(蒼玉)である。SaphirはBoyer社がレンズにつける名称として最も多用した宝石名で、この名をもつレンズのみGauss型、Tessar型、Plasmat型、Heliar型(APO仕様)など光学系の構成が多岐にわたる[文献1]。設計士スザンヌが最も好んだ宝石だったのではないだろうか。今回入手したレンズ名の末尾に《B》の記号がついているのはTessarタイプのSaphirと識別するためである。《B》の表記があるものがPlasmat型で、無表記のものがTessar型またはGauss型となっている。《B》の表記が引き伸ばし用レンズを意味しているわけでないことはTessarタイプのSaphirにも引き伸ばし用モデルが存在し《B》の表記が無いことから明らかである。第二次世界大戦前の1939年までに少なくとも6種類のノンコート・モデル(焦点距離85mm, 100mm, 110mm, 120mm, 135mm, 210mm)がF4.5の口径比で発売され、戦後は1970年代初頭にBoyer社が倒産した後、同社の商標と生産体制を引き継いだCEDIS-BOYER社から口径比F3.5を持つ少なくとも9種類のモデル(焦点距離25mm, 35mm, 50mm, 60mm, 65mm, 75mm, 80mm, 85mm, 95mm)と、口径比F4.5を持つ少なくとも6種類のモデル(100mm, 105mm, 110mm, 135mm, 150mm, 210mm)、および300mm F5.6が供給された。なお、このレンズにはSAPHIR 《BX》という名で1970年代に発売された後継製品が存在する。レンズの生産と供給は1982年まで続いていた。

[脚注1]Suzanne Lévy-Bloch(スザンヌ・レビ-・ブロッホ)[1894-1974] ・・・パリで活動していたアルザス人建築家Paul Bloch(ポール・ブロッホ)の娘。数学で学位を取り、シネマスコープの発明者として名高い天文学者Henri Chrétien(アンリ・クレティアン)に師事、P.Angenieux(ピエール・アンジェニュー)もHenriに師事した同門生である。その後、Henriが創設に協力したパリの光学研究院(Institut d'optique théorique et appliquée)のエンジニアとなっている。夫のAndréが1925年に創業者Antoinr Boyer(アントワーヌ・ポワイエ)の一族からBoyer社を買い取り経営者につくと31歳で同社の設計士となり、その後はAndréと死別する1965年まで数多くのレンズ設計を手掛けている。(M42 MOUNT SPIRAL 2013年2月28日でまとめた記事を要約)

Boyer Saphir 《B》(1931)の構成図トレーススケッチ。本レンズは引き伸ばし用なので光学系の左右の位置関係が普通のレンズとは逆で、銘板のある側が後玉となる。上図で言うと光はフィルムを通過後に左側(マウント側)から入り、矢印に沿って進み、銘板のある右側へと抜けたあと印画紙へと届く。構成は4群6枚のPlasmat/Orthometar型である。非点収差と倍率色収差の補正効果が優れ、写真の四隅まで高解像なうえ、色ズレ(カラーフリンジ)を良好に抑えることができるという特徴を持つ。また画角を広げてもコマ収差がほとんど変化しないため広角レンズにも向いており、かつては航空撮影用や写真測量用の広角レンズにも使われていたことがある。絞っても焦点移動が小さいため引き伸ばし用レンズにも好んで用いられる設計である。各エレメントを肉厚にすることが収差的に上手く設計するコツなのだそうである[文献5]









参考文献
重量(実測) 270g, F3.5-F16, 絞り羽 16枚, 焦点距離85mm(実効焦点距離 87.3mm), マウント形状 L39/M39, 引き伸ばし用レンズ(エンラージングレンズ)


入手の経緯
レンズは2013年12月にebayを介して米国のロスチルド4さんから落札購入した。このセラーは同型レンズのデットストック品を次々と売り続ける人物のため、少し前からマークしていた。私は過去4回にわたりこのセラーから売り出された同一モデルのレンズに対して落札を試みたが、5回目にしてようやく入手に成功することができた。過去5回の落札額は250~300ドル+送料48ドルである。届いた品はやはり状態が良く、元箱とオリジナルキャップがついてきた。Boyer製レンズは最近になって広く認知されるようになり、エンラージングレンズであるにも関わらず、ここ1年間の推移を見ても相場価格が急激に高騰している。eBayでは2015年4月現在で同じ型のレンズが450ドルから600ドル程度で取引されている。
 
カメラへの搭載
引き伸ばし用レンズは一般にヘリコイド(光学部の繰り出し機構)が省かれており、一眼レフカメラやミラーレス機の交換レンズとして用いるにはヘリコイドユニットを別途用意し、これと併用する必要がある。レンズは通常マウント部がライカスクリューと同じM39/L39ネジになっており、変換リングを介してM42マウントの直進ヘリコイドに搭載することができ、M42レンズとして各種一眼レフカメラやミラーレス機等で使用することができる。M39-M42変換リングや直進ヘリコイドは一部の専門店に加えヤフオクやeBayで入手できる。なお、本レンズが包括できるイメージフォーマットは35mm判よりも広く中判6x6フォーマットでもケラれることなくカバーできるので、今回はレンズを中判カメラのBronica S2でも使用した。この場合は35mm判換算で46mm F1.9相当の画角とボケ量が得られる。レンズをカメラにマウントするには香港のレンズワークショップから入手した特製Bronica M57-M42マウントアダプターを用いている。ただし、フランジ長の関係で無限遠のフォーカスを拾うことができないので、撮影は近接域のみに限られている。 

撮影テスト
引き伸ばし用レンズとはフィルムに記録された細かいディテールを印画紙に正確に投影するために用いられるレンズである。写真用レンズとは異なり、そもそも平面であるフィルムの記録を同じく平面である印画紙に焼き付けることを目的とするため、撮影用レンズを上回る解像力を持つことは当然ながら、印画紙上で四隅まで均一な投影像が得られるよう収差補正されていることが重要である。例えばカラーフリンジや歪みは極限まで少ないことが好まれるし、像面湾曲も出来る限り小さくなるよう設計されている。このような用途の性格上、結果として立体感のやや乏しい平面的な写りになることは仕方のない事である。また、ワーキングディスタンスが近接領域に限られるので、収差の補正基準は普通の写真用レンズのように無限遠に取られているわけではなく近接域になっているのが普通で、マクロ撮影では非常に良く写る。画質設計にボケ味は考慮されておらず、どう写るかレンズを実際に使ってみないとわからない面白さがある。
Saphir《B》は流石に引き伸ばし用レンズというだけのことはあり、歪みや色収差は目立たないレベルまで抑えられている。また、近接撮影では良好な解像力を示し四隅まで画質には安定感がある。階調はなだらかに推移しながらもコントラストは良好でよく写るレンズである。発色はやや青みがかる傾向があり、偶然なのかはわからないが、まさにサファイアブルー!。そういえばBoyerにはルビーというレンズもあるが、このレンズの場合には赤みがかるのであろうか・・・そんなはずはないか。ボケは前後ともたいへん美しく、近接からポートレート域では背後にフレアが入るため滑らかなボケ味となっている。ポートレート域では僅かに背後にグルグルボケが出ることもあるが、目立つ程ではない。
以下では中判カメラによる銀塩撮影とデジタル一眼カメラによる作例を示す。



中判銀塩カメラ(6x6 format)による作例

使用機材
CAMERA: Bronica S2, 露出計: セコニック・スタジオデラックスL-398, FILM: Fujifilm Pro160NSカラーネガ, Kodak Portra 400(カラーネガ)
 
F8 銀塩撮影 Fujifilm PRO160NS + Bronica S2(6x6 format):さすがにエンラージングレンズ。近接撮影用を想定しているだけのことはあり、マクロ域でもピント部の描写は安定している。絞っても階調は軟らかく推移し、とても美しい描写である

F3.5(開放) 銀塩撮影 Fujifilm PRO160NS + Bronica S2(6x6 format):開放なので被写界深度はとても浅い。ピント部には十分な解像力があり、フィルム撮影で用いるには十分な性能である









F3.5(開放) 銀塩撮影 Fujifilm PRO160NS + Bronica S2(6x6 format): こちらも開放。これだけ写るのだから、素晴らしいとしか言いようがない。高解像なピント部とフレアに包まれる美しい後ボケが見事に両立している。 F5.6まで絞った同一作例はこちら



F11 銀塩撮影 Kodak Portra 400 + Bronica S2(6x6 format): 絞るとやはりシャープである。開放での同一作例はこちら


F8 銀塩撮影 Kodak Portra 400 + Bronica S2(6x6 format)

F8, 銀塩撮影(階調補正:黒締め適用),  Fujifilm PRO160NS + Bronica S2(6x6 format)
















35mm判カメラによるデジタル撮影
CAMERA: Sony A7
F8, Nikon D3(AWB): こんどはデジタル撮影。背景はコマフレアに覆われ美しいボケ味である


F8, Sony A7(AWB): 質感表現もバッチリでマクロ撮影用レンズとしても十分な性能だ。開放での描写(→こちら)はピント部にも僅かにフレアを纏うようになるが、解像力やコントラストは維持されている

上の写真の一部を拡大クロップしたもの。近接撮影での解像力は高く、質感を緻密に表現している
F3.5(開放), Sony A7(AWB):ポートレート域でも背景にモヤモヤとコマフレアが入り美しいボケ味を演出している。一方でピント部はスッキリとヌケが良い。器用な描写特性を持つレンズだ






F3.5(開放), Sony A7(AWB): コントラストは良く、ピント部はシャープである

F5.6, Sony A7(AWB): 

F3.5(開放), Sony A7(AWB): 開放でもコントラストは良好

F8, Sony A7(AWB): 強い日差しでも階調硬化はみられない








F5.6, Sony A7(AWB): フィルターねじが無いレンズなのでフードはつかないが、屋外での使用時でもゴーストやハレーションはあまり出なかった
F5.6, Sony A7(AWB): この日は小学校の入学式。記念撮影です

4 件のコメント:

  1. いつも本当に愉しく読ませていただいています。学生です。
    (「合間」に読むつもりが、気づいたら数時間…学業の敵です 笑)

    「立体感のやや乏しい平面的な写り」とおっしゃってますが、
    大きなボケ量を抜きにしても、私にはどの作例もとても立体感の立った描写に思えます。
    薬缶なんか画面から飛び出して来そう…は言い過ぎでしょうか。
    というか、「それほどボケてないのに立体感をともなった作例」作例は
    どうも像面の湾曲が少ないとされているレンズに多いと思うのですが、如何でしょう?

    (私自信は興味を持って作例を探しまわるだけで、まだ自分でレンズ交換式のカメラを持った事すらありません。
    現在購入を検討しているような段階です。)

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    1. コメントありがとうございます。収差がなくては立体感は出ないと思います。人間の視界は写真のように平面的に像をとらえることはできませんが、奥行きがなくても対象を立体的に見る力があります。学業は大事。新学期ですので、しっかり頑張ってください。

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  2. 初めてのコメントです。いつも参考させていただいております。娘さんのご進学おめでとうございます。ブログ初期からの投稿を通し健やかなご成長を実感しております。彼女にとって素晴らしい学校生活になりますよう。

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    1. Jayさん

      ご声援ありがとうございます。Blogも内容的にまだまだ未成熟ですが娘と共にです。少しづつ成長をしています。皆様からたくさんの事を学びながら娘が大人になるころには、満足のゆくレベルになる予定です。

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