前玉を回すとボケ味が変わる
Ross London Xpres 75mm F3.5
古いフォールディングカメラにはピント合わせを行う際にレンズの前玉をクルクルと回転させ前方に繰り出す「前玉回転式」と呼ばれるピント調整機構を持つレンズがみられる。レンズの前玉・第1レンズを前方に繰り出し光学系を伸縮(構造変化)させ、これに伴うバックフォーカスの変化を利用してピント合わせを行うという方式である。現在のレンズでは光学系全体を繰り出すヘリコイド式が主流だが、この方式に比べると前玉回転方式は撮影距離に対する画質の変化(収差変動)が大きく、無限遠を基準にシャープで高解像な画質が得られるようレンズを設計する場合にも、ポートレート域から近接域にかけては収差を生かしたソフトな描写表現が可能である[文献1]。これは現代のフローティングシステムにも通じるダイナミックな画質設計であり、ヘリコイド式では十分な収差変動が起こらないレンズに対しては、ある種の柔軟性を提供することができる。たとえばテッサー型レンズは鋭く硬い描写傾向やザワザワと煩いボケ味のため用途が限定され人物のポートレート撮影には不向きとされてきたが、前玉回転方式を導入すればこの弱点が改善され、写真表現の幅をいっそう拡大させることができるのである。
Ross Xpresに採用された前玉回転方式のピント調整機構:写真の上段は近接撮影時、下段・左は無限遠撮影時に合わせているところ。前玉を回すと最前部の第一レンズのみが前方に繰り出される仕組みになっている。収差的にみれば正の第一レンズが前方に繰り出されると後部にある負の第二レンズの補正作用が弱まり球面収差の収差変動がおこる[文献7]。後ボケが柔らかくなるなどの効果が生まれる |
今回取り上げる一本はオールドレンズ愛好家の諸先輩方が好んで使う英国最古のレンズメーカーRoss(ロス)社のXpres(エキスプレス)である。カラー撮影では独特の発色傾向を示しモノクロ撮影との相性も抜群、常に高い評価が飛び交いユーザー同士による異様な盛り上がりである。Xpresには何種類かのモデルがあり、私が入手したのは英国ホートン社(Houghton Butcher Co., UK)のEnsign Selfixという中判カメラに搭載され1950年代に製造されたレンズである。このカメラには6x9/6x6フォーマットと、セミ判にあたる6x4.5フォーマットの2種のモデルが存在し、それぞれにXpres 105mm F3.8と75mm F3.5が搭載されている。他には英国MPP(Micro Precision Products)製の二眼レフMicrocord(6x6フォーマット)用として1951年から供給されたXpres 77.5mm F3.5も存在する。いずれもレンズの構成はシャープな描写を特徴とするテッサータイプである。私が入手した個体はBORG製ヘリコイドユニットに移植された改造品であり、ピント合わせには従来からの前玉回転方式に加え新たに導入したヘリコイドが使用できる。2種類のピント調整機構を併用することで自由度の高い変化自在な描写変化を楽しむことができるユニークな仕様となっている。
XpresシリーズのルーツはJ.Stuart(スチュアート)とJ.W. Hasselkus(ハッセルカス)という人物が設計し1913年に登場した3群5枚構成の変形テッサー型(Xpres型)レンズである[文献2-4]。このレンズは当時まだ有効だったツァイスのテッサー特許を回避する目的から、わざわざ後群を3枚のはり合せに変えテッサー型の亜種として市場供給されていた。初期のモデルは口径比がF4.5(焦点距離約120mm ~約300mm)でスタートしているが、これでも当時としてはたいへん明るいレンズであった。1925年には口径比をF3.5まで明るくしたスチル用モデルとシネ用モデルが登場、1927年にはF2.9まで明るくしたシリーズも市場供給されている[文献4]。他には1920年代後半に導入されたXpres F1.9(シネマ用および小型ハンドカメラ用)や広角レンズのWide-Angle Xpresなども存在するが、今回取り上げるXpresとは構成の異なる別系統のレンズである。
★入手の経緯
レンズは2012年1月にヤフオクを介してrakuringjpさんから落札した。BORG のヘリコイドに移植され無限遠のピント調整が施されており、M42レンズとして使用できる状態で出品されていた。オークションの解説を要約すると「いろいろな部品を使用しM42マウントに改造した。外観に僅かなペイント落ちがある。レンズには目立つキズ、クモリ、カビはない。強い光に透かしてみれば前玉に極小の点キズ2個、1mmのヘアーライン一本がある。後玉に目立つキズはない。イメージクオリティに影響のないレベルで気泡、ホコリがある」とのこと。レンズにはラバーフードとキャップ、フォクトレンダー製の被せ式ステップアップリングが付属していた。もともとフィルターネジを持たないレンズなので、ありがたい配慮である。商品は24800円の開始価格でスタートしたが、私以外には1件の入札があったのみで争奪戦にはならず25300円であっさり落札、経年劣化が徹底的に明示されているので安心して購入することができた。BORGのヘリコイドユニットだけでも新品で購入すれば1万円程度はするので、なかなかお買い得なショッピングであったと思う。
Xpresは中判カメラ用として設計されたレンズなので今回もBRONICA S2の出番である。このカメラはフォーカルブレーンシャッターを搭載した一眼レフカメラであり、中判の6x6フォーマットをカバーしている。普通の一眼レフカメラは撮影時にミラーが前方に跳ね上がる仕組みだが、このカメラは何とミラーが後方に倒れる仕組みになっており、バックフォーカスの短いレンズでもカメラにマウントさえできればミラー干渉の心配がない。カメラとしての合理性よりもレンズとの互換性を重視している点がこのカメラの著しい特徴で、オールドレンズの母機として運用する際に高い自由度を提供してくれる頼もしい存在である。ただし、Xpresのフランジバック長は75mm前後とBronicaマウントのフランジバックより30mmほど短いため、このままカメラにマウントできても無限遠までピントを拾うことはできない。そこで、以前Biotessarのブログ・エントリーで考案した方法を再び踏襲しレンズを前玉のフィルター枠の側からマウント、カメラの内部へ沈胴させて使用することにした。バックフォーカスを短縮させピントを無限遠まで拾えるようにするのが狙いである。試行錯誤の末、下の写真に示すような部品構成で実現できることがわかった。用いた部品は全て市販品なので、以下で述べる解説は誰にでもできる方法である。6x6フォーマットの中判カメラに装着すると、35mmライカ版換算で41mm F1.9相当の焦点距離と明るさ(ボケ量)を持つレンズとなる。
まずは5枚のアダプターリング(A)~(E)をつなぎ土台を製作する(下の写真・左側)。Bronica M57-M42アダプターリング(A)の後方背面側からM42マクロチューブ(B)をはめ、更にM42リバースリング(C)でM42マウントのメスネジをフィルター用のオスネジに変換する。続いて、このオスネジにステップアップリング(D)を装着してネジ径をレンズ本体のフィルターネジと同じ30.5mm径に変換、かぶせ式ステップアップ・フィルター(E) のネジに繋ぐ。こうして5枚のリング(A)~(E)で組み上げた土台をレンズ本体の前玉に装着する。最後にBronica用M57マクロエクステンションチューブ(F)を覆い被せ、土台最下部のM57-M42アダプターリング(A)のM57ネジに固定すれば完成(下の写真・右側)。あとはカメラにマウントするだけだ。
5つの変換リング(A)+(B)+(C)+(D)+(E)で土台(写真・左の下部)をつくり、レンズを前玉側から装着する。最後にマクロエクステンションチューブ(F)を被せ(写真・右)、(A)のM57ネジに固定すれば準備完了だ |
M57エクステンションチューブ(F)のマウント側は57mm径(P1)の雄ネジとなっており、上の写真に示すようにBronica本体のヘリコイド部に設けられたM57ネジに装着できる。レンズ本体は土台(A)~(E)を介し、カメラに対してフロント側(フィルターネジの側)からマウントされ、カメラ本体の内部に宙吊り状態で据えつけらる。これは言わば沈胴している状態なので、バックフォーカスが短縮され無限遠のフォーカスを拾うことができるというわけだ。前玉側はM42ネジとなっているので、ここにM42マクロ・エクステンションチューブを装着すればレンズフードの代わりとすることができる。また、レンズキャップの代わりにはM42ボディキャップを利用すればよい。この場合、M42ボディキャップはフードの先端に装着することもできる。不便なのは絞りの制御を行うごとにレンズをカメラ本体から取り外さなくてはならないことである。今のところ、この手間を避ける良い方法が思い当たらない。
★撮影テスト
Xpresを用いていきなり驚いたのが独特の発色傾向である。このレンズは茶色や灰色といったロンドンによくある色と緑や赤など草花の原色を共にうまく出すことができ、フィルム撮影だろうとデジタル撮影だろうと関係なく味わい深い写真が撮れる。英国で盛んなガーデニングやアンティークを基調とする英国風インテリアなどの文化がこうした性格のレンズを造らせたのかもしれないが、とにかく雰囲気の良く出るレンズである。前玉を無限遠側に固定しヘリコイドでピント合わせを行う場合は開放からシャープで高コントラストな像となりヌケも良い。ただし、ボケ味は硬く距離によってザワザワと煩い背景になる。マクロ撮影の性能はとても高いと思われる。反対に前玉を近接側に設定する場合は若干ソフトな描写傾向になるが、後ボケはフワッと柔らかくボケ量も大きくなるうえ背景がフレアに包まれるため、美しいボケ味が得られる。前玉の回転により球面収差が過剰補正から完全補正を経て補正不足へと変化したのであろう[文献1,6,7]。今回はフルサイズ機Sony A7と銀塩中判機の2種類のカメラでレンズの撮影テストを行た。中判機で使用する場合にはポートレート域の撮影で背後に若干のグルグルボケがみられた。階調描写については35mm判カメラで使用する方が鋭く、中判機で用いる方が軟らかい印象をうける。
撮影機材
デジタル撮影: Nikon D3, Sony A7
銀塩撮影(35mm判): Yashica FX-3 Super 2000(film:Kodak Ultramax 400)
銀塩撮影(中判):Bronica S2(film:Kodak Portra400, Fujicolor Pro160N)
F5.6 銀塩撮影(Kodak Ultra Max 400), 前玉回転を無限遠側に設定しピント合わせは直進ヘリコイドを使用しておこなっている。シャープネスが高くヌケもよいが、晴天下に絞って使うと階調が硬くなるのはまさにテッサ-タイプの特徴である。グリーンの発色が美しい
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F5.6 Nikon D3(AWB)前玉回転を無限遠側に設定 , デジタル撮影でも雰囲気のあるいい色が出るのはこのレンズの持つ優れた長所である
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F5.6 Nikon D3(AWB)前玉回転を無限遠側に設定, テッサータイプならではの鋭い階調描写でありヌケも大変良い
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F3.5 Nikon D3(AWB) 前玉回転をポートレート域に設定, ハイキー気味の撮影でも雰囲気のある発色になる
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★中判カメラ(Bronica S2)での撮影テスト
レンズ本来の画質や収差設計がどうなっているのかを知るには、このレンズの定格イメージフォーマットに適合したカメラ(6x4.5フォーマットの中判機)で用いるのが良い。しかし、手元にこの規格のカメラがないので、今回は一回りおおきなイメージフォーマットのBronica S2(6x6フォーマット)で撮影テストをおこなうことにした。結論から言えば35mm判カメラ(フルサイズ機)で使用した時よりもボケ味は更に硬くなり、撮影画角が広がる分だけ背景にはグルグルボケが目立つようになった。こうした性質の変化を考慮し、中判機ではピント合わせの際に前玉回転を積極的に使用することをおススメする。階調描写は中判機で用いる方が軟らかく、シャドー部にむかって濃淡がなだらかに変化している。発色はやはり独特で、雰囲気がにじみ出るような描写傾向は中判機でも変わらない。
F5.6(開放), 銀塩撮影(Fujicolor Pro160N+Bronica S2), 前玉回転を近接側に設定 |
F3.5(開放), 銀塩撮影(Fujicolor Pro160N+Bronica S2), 前玉回転を近接側に設定 |
F3.5(開放), 銀塩撮影(Kodak Portra400+Bronica S2), 前玉回転を近接側に設定。この距離でもボケ味はやや硬めであるが、階調描写は中判機で用いる方が軟らかい印象である |
F3.5(開放), 銀塩撮影(Fujicolor Pro160N+Bronica S2), 前玉回転を近接側に設定 |
F3.5(開放), 銀塩撮影(Kodak Portra400+Bronica S2), 前玉回転を近接側に設定 |
F3.5(開放), 銀塩撮影(Kodak Portra400+Bronica S2), 前玉回転を無限遠側に設定。中判機で用いると画角が広い分だけ背後にややグルグルボケが出ることもある。正月になると日本人はみんな手を合わせ、一年間の平和や幸福を願います |
F3.5(開放), 銀塩撮影(Fujicolor Pro160N+Bronica S2), 前玉回転を無限遠側に設定 |
F3.5(開放), 銀塩撮影(Fujicolor Pro160N+Bronica S2), 前玉回転を近接側に設定 |
F5.6, 銀塩撮影(Fujifijm Neopan 100+Bronica S2), 前玉回転を無限遠側に設定 |
★ボケ味の補正効果
前玉回転式レンズのRoss Xpresにはボケ味をコントロールできる特別な機能が備わっている。前玉を近接撮影側に回すと後ボケがフワッと柔らかくボケ量も大きくなるうえ、背景がフレアに包まれるため被写界深度は浅く見え、理想に近い美しいボケ味となる[文献5]。これは光学系の伸縮により球面収差が補正不足になることから来る副産物的な効果である[文献1,7]。反対に前玉を無限遠撮影側に回すと収差は過剰補正に変わる。解像力とヌケがよくなりシャープな像になるものの、後ボケの拡散は硬くボケ量も小さくなる。2線ボケを生むレンズはこのタイプの典型である。ボケの美しさとシャープネスは両立の難しいトレードオフの関係になっており、ボケの補正に偏重しすぎると解像力とコントラストを損ねソフトな描写傾向になるのであろう。
下の作例では絞りをF3.5に設定し前玉回転を無限遠側に目いっぱい回したときの撮影結果と近接撮影側に目いっぱい回したときの撮影結果を比べている。被写体背後のボケには明らかな差異がみられ、右側の写真の方がボケがフワッとしていて拡散が柔らかくボケが大きくみえることがわかる。
F3.5(開放) デジタル撮影, sony A7(AWB): 左は前玉を無限遠撮影側に回し球面収差を完全補正にした作例。右は近接撮影側に回し球面収差を補正不足にした作例 |
参考文献
[1] 「レンズ設計のすべて」辻定彦著 P152(Tessar型 前玉フォーカッシング)
[2] Brit.Pat 29637(1913), GB191329637(1913) by J. Stuart and J.W.Hasselkus
[3]「写真レンズの歴史」ルドルフ・キングスレーク著
[4] Early Photography
[5] ニコン千夜一夜物語第三十二夜
[6] 「写真レンズの基礎と発展」小倉敏布 P199
[7] 「レンズテスト 第2集」 中川治平・深堀和良 P91(ゾナー40mm F3.5の解説文中)