1950年代に生産されたHugo Meyer社のレンズ:Helioplan 4.5/75(前), Trioplan 2.8/100(奥), Primotar 3.5/80(左), Primoplan 1.9/58(右) |
東独フーゴ・マイヤーの三羽烏
PART1:HELIOPLAN 75mm F4.5
PART1:HELIOPLAN 75mm F4.5
戦前から個性溢れるレンズを世に送り出してきたHugo Meyer(フーゴ・マイヤー)社。ブランド志向の強い日本人にはCarl Zeissの影に隠れ馴染みの薄いメーカーであるが、マニア層からは今も根強い人気を得ている。大方のレンズメーカーが主力製品の構成にTessarタイプ、明るいレンズにPlanarタイプを据える中、同社が採用したのは広角レンズにDialytタイプとAriststigmat(旧ガウス)タイプ、明るい標準レンズと中望遠レンズにErnostarの発展タイプ、望遠レンズにはBis-TelarタイプのTelemegor、マクロレンズとシネレンズにはPlasmatシリーズなどCarl Zeiss的な発想とは一線を画する独特な製品ラインナップである。他社との競合を避ける徹底した姿勢を貫くことで中堅規模ながらも強い企業を目指そうとしていたようである。本ブログでは数回にわたり1950年頃に生産されたHugo Meyer社(VEB Feinoptisches Werk Görlitz社)の3本の主力レンズ(広角Helioplan/標準Primoplan/望遠Trioplan)を取り上げる。レンズ名の末尾にPLANがつく共通ルールで結ばれたHugo Meyer社の三羽烏である。
★Hugo Meyer(フーゴ・マイアー)社
Hugo Meyer社(Hugo Meyer & Co.)は1896年1月5日にドイツのドレスデン近郊都市ゲルリッツにてHeinrich treasures社のビジネスマンだった光学技術者Hugo Meyer(1963-1905)が実業家Heinrich Schätzeと共に創業した光学機器メーカーである。ドイツ版ウィキペディアには創業者Hugoの青年期の肖像写真が掲載されており、かなりハンサムな人物のようである。彼らはドレスデン近郊都市のゲルリッツLöbauer通りにあるカメラメーカーのひしめくビルの一角に最初の工房を構えた。1903年にアプラナート型レンズのAriststigmat(アリストスチグマート)を発売し最初のヒット商品となるが、Hugoは42歳の若さで1905年に死去してしまう。ただし、同社にはHugo以外にもレンズ設計士が在籍していたようで、1908年にDagor型レンズ、続く1911年にはAriststigmatの広角モデルを発売するなど新製品を絶えず世に送り出している。Hugoの死去により会社の経営権は妻Eliseと息子に引き継がれているが、企業活動は衰えず、1911年にEuryplan(オイリプラン)のレンズで知られるSchultz and Biller-beck社を買収しレンズの生産ラインを補強、1913年からは主力レンズTrioplanの生産を開始している。SB社のEuryplanは後に加入するルドルフ博士の手で再設計されPlasmatに置き換わっている。ブランド名としてはこちらの方が有名なのであろう。なお、1918年にはプロジェクター用レンズの生産にも乗り出している。
1919年、第一次世界大戦が終結しハイパーインフレに苦しむドイツ帝国はどん底の経済状態にあった。この時Hugo Meyer社に大きな転機が訪れる。かつてCarl Zeissに籍を置きTessar, Planar, Protarの発明で名を馳せたPaul Rudolph博士(当時61歳)が同社に再就職したのである。博士はすぐに新型レンズの特許を取り、1920年代に有名なPlasmat(プラズマート)シリーズの生産に乗り出している。Rudolphの加入は中小メーカーだったHugo Meyer社がブランド力を獲得し、事業規模を急速に拡大させる大きな転機となった。Rudolphは1933年に退職しているが同社の事業規模はその後も拡大を続け、1936年には100,000個のカメラやレンズを年単位で出荷する大会社へと成長している。
1930年代のHugo Meyer社はルドルフ博士監修の高級レンズPlasmatシリーズに加え、主力製品となるレンズのラインナップを幅広く展開し、それらをZeissよりもやや安価に販売していた。この頃に同社の主任設計士の座についていたのはStephan Roeschlein(シュテファン・ロシュライン)という人物である。Roeschleinは1936年にSchneider社に移籍するが、それまでの間Primoplan シリーズやTelemegorシリーズの設計、Ariststigmat(広角モデル)の再設計など主幹レンズの開発を手がけている。 Roeschleinが去った後はPaul Schäfterという人物が同社の主任設計士となり1937年にPrimoplan 1.9/58を開発している。
1939年に第二次世界大戦が勃発すると同社は軍需メーカーとしての性格を強め、照準器などを造るようになる。ドイツ敗戦の1945年、Hugo Meyer社は連合国によって解体され、工場の設備は賠償金の代わりとしてソビエト連邦に持ち出されてしまう。しかし、翌1946年には会社の再建が始まり、566個と少量ながらも写真用レンズの生産を再開、ドアの除き穴に取り付けるレンズなど民生品も製造するようになる。1947年には大判レンズの生産も再開、翌1948年に会社は東ドイツ政府によって国営化され、同社の正式名称はVEB Feinoptisches Werk Görlitzへと改称されている。ただし、レンズの方はその後もMeyer-Optikの商標名で売られていた。やがて戦後の復興景気が訪れ同社も本調子を取り戻すと、1952年にCarl Zeiss Jenaからコーティングの蒸着設備を導入し、それ以後は全てのレンズにコーティングを施すようになっている[注1]。Hugo Meyer社のこの時代の製品はまだ造りも良く、技術的に高い水準を維持していたが、その後1960年代に入るとTessarタイプやGaussタイプなど中核ブランドにCarl Zeiss的なレンズを据えるなど製品ラインナップの独自性が薄れてゆく。ブランドイメージは失墜し、Zeiss Jenaの廉価品を出すメーカーとして認知されるようになる。同社は1968年にVEB Pentaconに吸収されるが、レンズの方はMeyer-Optikの商標で1969年まで売られていた。VEB Pentaconは1990年のドイツ統一後、Schneiderグループの傘下に入っている。
[注1] Meyerのレンズにコーティングが施されるようになったのは第二次世界大戦終結の数年後からである。ZeissのTコーティングを模したV(=Vergütung)コーティングというものを採用していた。ただし、当初は全てのレンズにコーティングを施していたわけではなく、1952年にZeissからコーティングの蒸着設備を導入するまでコーティングの無いレンズも出荷していた。下記の文献によると、コーティング名の頭文字となったVergütung(直訳では「報酬」の意の語)には「ドイツ製(国産)のコーティング」という意味が込められているらしい。Vコーティングを採用した光学機器メーカーには旧東ドイツのルードビッヒ社やVEBフェインメス社、旧西ドイツのウィル・ウェツラー社やピエスカー社などがある。Tコーティングに対するサードパーティという位置付けだったのかもしれない。
参考:Large Format Lenses from the Eastern Bloc Countries 1945-1991, Arne Cröll 2011-2012
Hugo Meyer特集の第1回は1950年代に同社の主力製品の一翼を担った準広角レンズのHelioplanである。このレンズはもともとHugo Meyer社が1911年に買収したSchulze & Billerbeck社のブランドであった(Vade Mecum参照)。設計構成は4群4枚のDialyt(ダイアリート)タイプと呼ばれるもので、本ブログの前エントリーで取り上げたGoerz(ゲルツ)社のCelor(セロール)やArtar(アーター)、Dogmar(ドグマー)の系譜を受け継いでいる(下図)。Dialyt型レンズは収差の補正力が高く、特に色滲み(軸上色収差)と歪み(歪曲収差)に対する補正力が抜群に高いことから、第二次世界大戦後も製版や複写の分野で長く活躍していた。また、一般撮影においても高性能で幾つかのメーカーが戦前からレンズを供給しているが、その後Tessarとの競合関係により陶太され現在はこの分野から姿を消している。「レンズ設計のすべて」(辻定彦著)にはDialyte型レンズについてコンピュータシミュレーションの分析データに基づく詳しい解説があり、戦後に普及した新種ガラスを用いてこのタイプのレンズを再設計すると、収差的にはTessarに迫るたいへん優秀なレンズになると絶賛している。一度こういう評価を見てしまうとDialyt型レンズの実力がどこまで練り上げられていたのか自分の目で確かめてみたくなってしまうもので、さっそく戦後に開発された同型レンズを当たってみたところ、今回取り上げるHelioplanが1949年に再設計されたDialyteタイプのレンズであることを突き止めたのだ。
★入手の経緯
本レンズはeBayを介し2012年11月にロシアのカメラ屋から200ドルの即決価格(送料込みの総額215ドル)で落札購入した。このセラーは過去の取引件数が2060件でポジティブ・フィードバック100%(ニュートラルな評価すらない)と極めて優秀だ。商品の状態はエクセレントコンディションで「絞りはスムーズに動く。ガラスにキズ、拭き傷、カビ、ホコリの混入はない。純正キャップが付く。」とのこと。クモリとバルサム切れについて触れていないが、このセラーの他の商品を見る限りいつもの事のようなので問題なしと判断した。写真で見る限り概観は非常に良好で新品同様。デッドストックの未使用品のようにも見える。2週間後に届いた品はやはり記述以上に素晴らしく、僅かなホコリの混入と絞り羽の油染みを除けば新品同様と言っても過言では無い素晴らしい状態であった。ホコリはブロアーで簡単に除去できたので新品同様の状態である。eBayの中古相場は50-150ユーロくらいであろう。
★M42マウントへの変換
私が入手した75mmのHelioplanはヘリコイド機構の省かれたレンズヘッドのみの製品である。元々は蛇腹カメラなどに搭載され用いられていたレンズなのであろう。一眼レフカメラやミラーレス機の交換レンズとして用いるには簡単な改造を施しフォーカッシング・ヘリコイドに搭載する必要がある。本品はマウント部がM32のスクリューネジになっているので35mm-37mmステップアップリングで土台をつくり、その上からM42リバースリングアダプターを被せることでM42フォーカッシングヘリコイド(BORGのM42ヘリコイド【7842】)に搭載することにした。ステップアップリングの内径がM32のスクリューネジよりも極僅かに小さいようで、そのままではきつくて装着できない。棒ヤスリなどでステップアップリングの内側を削り、内径を僅かに広げておくとよいであろう。
ステップアップリング(35-37mm)で土台をつくり、その上からM42リバースリングアダプターを填める。これでM42スクリューネジに変換できる |
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M42に変換後はそのままOASYS M42 HELICOID【7842】に搭載して完成
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★撮影テスト
HelioplanはDialytタイプとしては極稀な戦後設計のレンズである。ガラス硝材の改良により安定感のある高い描写性能を実現している。ピント部は四隅まで充分な解像力があり、ハロやコマ、色収差は極僅かでヌケが良い。ノンコートレンズのためコントラストは高くはなく、曇天時ではとても軟らかい階調描写になる。晴天時においてもコントラストは強くなり過ぎずシャドーへの落ち方がなだらかで目に優しい描写傾向を維持している。発色はノーマルで淡泊過ぎず適度な色ノリである。前エントリーで取り上げた同型レンズのDogmarに比べるとボケ味がやや異なるようで、Dogmarは後ボケが硬くザワザワと煩くなり2線ボケ傾向もみられたが、Helioplanではボケが比較的滑らかで2線ボケも目立たない。ただし、距離によっては開放で僅かにグルグルボケが出る。私個人としてはかなり好きな写りである。以下作例。
CAMERA: EOS 6D
LENS HOOD: 内径20mm程度の自作フード(フィルター径25.5mm)
F6.3, EOS 6D(AWB): ピーカンの天気だがコントラストの低いレンズのためか階調が硬くならず、シャドー部はなだらかさをキープしている。コマがよく補正されておりスッキリとヌケの良い写りだ |
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F6.3, EOS 6D, AWB: こんどは曇天時での作例。中間階調が豊富で目に優しい軟らかい描写が好印象である
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F4.5(開放), EOS 6D(AWB): 開放でもピント部はシャープだ。カラーバランスはノーマルで色のりもヌケもよい。距離によっては四隅にややグルグルボケが出る事もあるが、一段絞ればボケ味は常に穏やかである |
F11, EOS 6D(AWB): 近接撮影でも、このとおりに高解像でしっかりと写る |
独特の製品ラインナップを展開し他社との競合を避ける徹底した企業理念を貫いた戦前および戦後間もない頃のHugo Meyer社。このような経営方針に至ったのは1919年から同社に14年間在籍したRudolph博士の影響からだったのではないだろうか。博士はかつてCarl Zeissに在籍し、同社の企業戦略や製品開発に関わった経験から、大企業との戦い方や中小メーカーの取るべき立ち位置を深く理解していた人物である。Zeissの経営方針(不況時に傘下のパルモス・バウを切り捨てた)に反発し同社を退職したと言われており、後に自分は大会社よりも中小メーカーに向いていると61歳でHugo Meyer社へ再就職を遂げた経緯がある。戦前のHugo Meyer社はTessarタイプやPlanarタイプなどCarl Zeiss的な定番レンズの構成に頼る事なく、特色ある製品を展開することで一定の成功を収めていた。TessarやPlanarを発明した張本人であるRudolph博士がHugo Meyer社に在籍し、同社の経営方針に一定の影響を与えていたからであるに違いない。