おしらせ


2013/05/10

Meyer-Optik Gorlitz Primoplan(プリモプラン) 58mm F1.9 (M42)


1937年から1950年代後期まで生産されたPrimoplan(プリモプラン)58mm F1.9。中古市場では時々見かける一見何の変哲も無い標準レンズである。しかし、構成図を見た途端に「何じゃコレは」と衝撃をうける人もいるのではないだかろうか[下図]。Tessar(テッサー)タイプでもGauss(ガウス)タイプでもない別の種類の何かであり、このクラスの一眼レフカメラ用レンズにはおよそ似つかわしくない異様な骨格である。このエイリアンの正体は実は1920年代に現れたErnostar(エルノスター)と呼ばれる古典鏡玉の一派で、Ernostarは後に銘玉Sonnar(ゾナー)を生み出す設計ベースにもなっている。運命の悪戯かSonnarはその後、バックフォーカスの関係から一眼レフカメラに適合せず、ほぼ絶滅してしまうが、Primoplanは標準画角のまま一眼レフカメラにも適合している。

Primoplanの光学系。構成は4群5枚でエルノスターの発展型である。中央に絞りをあらわす縦棒があり、これを挟んで左側が前群、右側が後群(カメラの側)となる

東独フーゴ・マイヤーの三羽烏
PART2:PRIMOPLAN 58mm F1.9

一眼レフカメラの明るい標準レンズと言えば、各社Gauss(Planar)タイプの構成を採用するのが定石である。これはミラー干渉を回避するために必用なバックフォーカスを確保しながら、広い画角と明るい口径比を両立させる事が一般にはたいへん困難なためである。広い画角を諦めるならSonnarタイプのレンズで要求を充たすことができるし、少しぐらい暗くてもよいならTessarタイプやTriplet(トリプレット)タイプ、Xenotar(クセノタール)タイプで充分である。しかし、両立させるとなると簡単にはゆかず、Gaussタイプに頼る以外にほぼ選択の余地は無い。Ernostarの発展タイプであるPrimoplanはGaussタイプ以外では唯一、明るさと画角に対する要求を両立させ一眼レフカメラにも適合できた珍種なのである。

ErnostarはCooke社のDannis Taylor(テイラー)が1894年に開発したTriplet(上図・左)を原型に据え、その最前部第1レンズを2枚に分割することで大口径化を実現したレンズである。今回紹介するPrimoplanは更にErnostarの第2群を2枚の接合レンズに置き換えた進化形態である
Primoplanシリーズは1930年代半ばにHugo Meyer社のStephan Roeschlein(シュテファン・ロシュライン)とPaul Schäfter(ポール・シェーファー)により開発された大口径レンズである。その原点となったのは1922年にErneman(エルネマン)社のBertele(ベルテレ)とKlughardt(クルーグハルト)がTripletをベースに発明し、世界で最も明るいレンズということで話題となったErnostar 100mm F2である(上図中央)。PRIMOPLANはErnostarの第2群を2枚接合の「旧色消しレンズ」に置き換え色収差の補正機能を追加するとともに、張り合わせ面の屈折作用によって球面収差の補正効果を改善させたレンズであると考えられる。旧来のErnostarに対してヌケの良さと解像力を向上させているというわけである。ただし、Ernostar同様に凸レンズ過多の設計構成であることからペッツバール和が大きく、第3群の凹レンズに強い硝材を用いても非点隔差による周辺画質の悪さ(四隅の解像力やグルグルボケ)を充分に改善することができない。また、旧色消しレンズは非点収差の補正に全く寄与しないので、何の対策もないまま包括画角を標準レンズ並に拡大させてしまったPrimoplanは、四隅の画質にかなりの無理を抱えている。Ernostarよりも更に一歩先をゆく、強烈な癖玉の予感である。

Stephan Roeschlein:Hugo Meyer社に1936年まで在籍しPrimoplan以外にもTelemegor(テレメゴール)シリーズの設計やAriststigmat(アリストスティグマート)の広角モデルの再設計に関与した人物である。その後、クロイツナッハのSchneider(シュナイダー)社にテクニカルディレクターとして移籍している。第二次世界大戦後は自身のレンズ専門会社Roeschlein-Kreuznachを設立している。Roeschlein社では自社ブランドのLuxonシリーズを生産し、Schneider社へレンズのOEM供給も行っていた。同社は1964年にSill Opticsに買収され消滅、現在に至っている。(参考:Camera Pedia)。

製品ラインナップ
Primoplanはまず1934年に5cmの焦点距離でLeica用とContax用、8cmの焦点距離でVP Exakta(ナハト・エキザクタ)用が供給され、1936年には75mmの焦点距離でExakta用(35mm判)とLeica用(Contax用は不明)が追加発売された。Exakta用の標準レンズはバックフォーカスの関係から焦点距離5cmのモデルを流用することができず発売が遅れていたが、1937年にやや焦点距離の長い58mmのモデルが登場したことで、ようやくExaktaに適合するようになった。このモデルは戦後になってM42マウント用モデルが追加発売されている。1938年~1939年には100mmの焦点距離のモデルがPrimareflex用として追加発売された。他にも焦点距離30mmと180mmのスチル撮影モデル(F1.9)や、焦点距離25mmと50mmのシネ用モデル(F1.5, 16mm判)が市場供給されている(Vade Mecum参照)。戦前のモデルは真鍮削り出しの鏡胴で重量感のある素晴らしい造りであるが、シリアル番号1,000,000番付近(1942年頃)からアルミ鏡胴に置き換わり軽量化されている。1960年発売にダブルガウス型レンズのDomiron 50mm F2が発売されたことで、Primoplanは同社のラインナップから消滅している。なお、米国向に輸出された製品個体には商標権の問題を回避するため、PrimoplanではなくA-Traplanの名称が使われていた。この名称の製品個体もごく僅かだがeBayで流通している。
 
Primoplanの設計特許:焦点距離75mmのモデルについてはRoeschleinの米国特許(1936年)、一眼レフカメラのExakta用とM42用に再設計された58mmのモデルはSchäfterの米国特許(1937年)がそれぞれ見つかる。おそらく基本設計はRoeschleinだが1936年にシュナイダー社へ移籍してしまったため、後任のSchäfterがEXAKTAへの適合をおこなったという経緯であろう。

重量(実測)175g, フィルター径 49mm, 構成 4群5枚(Ernostarからの発展型), 製造期間(戦後型) 1952-1950年代後半, 絞り F1.9-F22(プリセット方式), 絞り羽 14枚, 最短撮影距離 0.75m, 対応マウント M42,EXAKTA。設計特許はPatent DE1387593(1936年)。レンズ名はラテン語の「第一の、最初の」を意味するPrimoにドイツ語の「平坦な」を意味するPlan(ラテン語ではPlanus)を組み合わせPrimoplanとしたのが由来。Primoはドイツ語では「優秀な、最良の」を意味するPrimaと関連があるので、この意味を掛けているとも考えられる。後玉が飛び出しているので一部のフルサイズ機では後玉のミラー干渉が起こるが、Sony A99やミノルタX-700(銀塩カメラ)では干渉の問題はない。私は干渉を回避するためEOS 6Dに装着後、ミラーアップモードで撮影している
入手の経緯
本品は2012年8月に欧州最大の中古カメラ業者フォトホビー(UV1962)がeBayにて235ドル(送料込)の即決価格で売っていたものを200ドルでどうだと値切り交渉の末に手に入れた。オークションの記述は「傷、カビ、バルサム切れ、クモリなし。外観は写真で判断してね」といつものように簡素である。外観には古いアルミ鏡胴のレンズらしく劣化がみられたが、写真で見る限り光学系に問題はなさそうであった。このレンズはコーティングが痛みやすいことが知られており、前玉にパラパラと傷があったりクモリの発生している個体が多く、状態の良いレンズに出会えるチャンスは滅多に無い。届いた品には描写に影響の無いレベルで僅かなホコリの混入が見られるのみでガラスはたいへん良好、プリモプランにしてはとても状態の良い個体であった。フォトホビーは魅力的な商品を大量に扱う業者であるがバクチ的な要素が大きいことでも有名なので、商品を購入する際には事前によく質問し商品の状態について確認を取っておいた方がよい。落札者に落ち度がなければ、きちんと返金してくれる業者だ。

撮影テスト
Primoplanの弱点はアンバランスなレンズ構成に由来する大きな非点収差である。この収差はピント部四隅の解像力を低下させ、アウトフォーカス部に強烈なグルグルボケを生み出す。本来はもっと画角の狭い長焦点の望遠レンズに使わなければならない構成なのである。しかし、オールドレンズという観点でみるならば、こんなに面白い癖玉はそう多くない。開放では僅かにコマが発生しハイライト部の周りがやや滲む。画面全体もややモヤッとしており、薄いベールがかかったような描写傾向である。コントラストは明らかに低く、発色はあっさりしていて、階調も軟らかい。解像力はごく中央部のみ良好で線の細い描写になるが、四隅に向かうにつれて急激に悪くなる。1段絞れば良像域は四隅に向かって拡大し、滲み(コマ)は消えヌケも良くなるが、依然としてコントラストは低く、発色はあっさり気味でグルグルボケも目立つ。周辺画質を安定させるには2段以上絞る必要がある。なお、グルグルボケの事を除けばボケ自体は柔らかく綺麗に拡散している。

EOS 6D(AWB): ミラーアップモードによる撮影
フード: 焦点距離55mm用のラバーフード(Kenko製3段折畳み式)を使用

F4, EOS 6D(AWB): 前ボケ、後ボケとも柔らかく綺麗な拡散である。コントラストが低いレンズなので曇り空の日には発色があっさり気味になる
F1.9(開放), EOS 6D(AWB): ビューンと突風。しかし、この日は無風。グルグルボケを生かした演出効果だ。開放ではコマの影響からややヌケが悪い


F1.9(開放), EOS 6D(AWB): 中央の桜の花びらを見るとコマが発生しややモヤッとしている様子がわかる。高解像域はごく中央部のみであるが、一段絞るF2.8ではこちらに示すように良像域が四隅に向かって拡大し、コマは消えシャープな像となる

F2.8, EOS 6D(AWB): 春の嵐を表現している。繰り返すが、この時は無風だ

F1.9(開放), sony A7II: (Photo by Y.Takemura): とても繊細な階調表現だ。プリモプランは綺麗な玉ボケが出る事でも知られている
F1.9(開放), sony A7II: (Photo by Y.Takemura): プリモプランらしい崩壊気味の2線ボケである
開放付近で荒れ狂うPrimoplanの性質は「レンズの味」などと表現されるような生易しいものではない。レンズを使いこなすにはそれなりの覚悟が必要だし、暴れ馬なので振り落とされないよう常に気を配る必用がある。このレンズの強烈な癖がオールドレンズの真髄へと通じるものであるのかどうか正直言って私にはよく分からない。しかし、使いこなす事を一つの遊びと捉えるならば、Primoplanは間違いなく楽しいレンズである。大人しくZeissやLeitzあたりの名馬で満足するのもよいが、たまにはロディオに興じるのも悪くはない。

2013/04/28

Meyer-Optik HELIOPLAN(ヘリオプラン) 75mm F4.5(M42改)

1950年代に生産されたHugo Meyer社のレンズ:Helioplan 4.5/75(前), Trioplan 2.8/100(奥), Primotar 3.5/80(左), Primoplan 1.9/58(右)
東独フーゴ・マイヤーの三羽烏
PART1:HELIOPLAN 75mm F4.5
戦前から個性溢れるレンズを世に送り出してきたHugo Meyer(フーゴ・マイヤー)社。ブランド志向の強い日本人にはCarl Zeissの影に隠れ馴染みの薄いメーカーであるが、マニア層からは今も根強い人気を得ている。大方のレンズメーカーが主力製品の構成にTessarタイプ、明るいレンズにPlanarタイプを据える中、同社が採用したのは広角レンズにDialytタイプとAriststigmat(旧ガウス)タイプ、明るい標準レンズと中望遠レンズにErnostarの発展タイプ、望遠レンズにはBis-TelarタイプのTelemegor、マクロレンズとシネレンズにはPlasmatシリーズなどCarl Zeiss的な発想とは一線を画する独特な製品ラインナップである。他社との競合を避ける徹底した姿勢を貫くことで中堅規模ながらも強い企業を目指そうとしていたようである。本ブログでは数回にわたり1950年頃に生産されたHugo Meyer社(VEB Feinoptisches Werk Görlitz社)の3本の主力レンズ(広角Helioplan/標準Primoplan/望遠Trioplan)を取り上げる。レンズ名の末尾にPLANがつく共通ルールで結ばれたHugo Meyer社の三羽烏である。

Hugo Meyer(フーゴ・マイアー)社
Hugo Meyer社(Hugo Meyer & Co.)は1896年1月5日にドイツのドレスデン近郊都市ゲルリッツにてHeinrich treasures社のビジネスマンだった光学技術者Hugo Meyer(1963-1905)が実業家Heinrich Schätzeと共に創業した光学機器メーカーである。ドイツ版ウィキペディアには創業者Hugoの青年期の肖像写真が掲載されており、かなりハンサムな人物のようである。彼らはドレスデン近郊都市のゲルリッツLöbauer通りにあるカメラメーカーのひしめくビルの一角に最初の工房を構えた。1903年にアプラナート型レンズのAriststigmat(アリストスチグマート)を発売し最初のヒット商品となるが、Hugoは42歳の若さで1905年に死去してしまう。ただし、同社にはHugo以外にもレンズ設計士が在籍していたようで、1908年にDagor型レンズ、続く1911年にはAriststigmatの広角モデルを発売するなど新製品を絶えず世に送り出している。Hugoの死去により会社の経営権は妻Eliseと息子に引き継がれているが、企業活動は衰えず、1911年にEuryplan(オイリプラン)のレンズで知られるSchultz and Biller-beck社を買収しレンズの生産ラインを補強、1913年からは主力レンズTrioplanの生産を開始している。SB社のEuryplanは後に加入するルドルフ博士の手で再設計されPlasmatに置き換わっている。ブランド名としてはこちらの方が有名なのであろう。なお、1918年にはプロジェクター用レンズの生産にも乗り出している。
  1919年、第一次世界大戦が終結しハイパーインフレに苦しむドイツ帝国はどん底の経済状態にあった。この時Hugo Meyer社に大きな転機が訪れる。かつてCarl Zeissに籍を置きTessar, Planar, Protarの発明で名を馳せたPaul Rudolph博士(当時61歳)が同社に再就職したのである。博士はすぐに新型レンズの特許を取り、1920年代に有名なPlasmat(プラズマート)シリーズの生産に乗り出している。Rudolphの加入は中小メーカーだったHugo Meyer社がブランド力を獲得し、事業規模を急速に拡大させる大きな転機となった。Rudolphは1933年に退職しているが同社の事業規模はその後も拡大を続け、1936年には100,000個のカメラやレンズを年単位で出荷する大会社へと成長している。
  1930年代のHugo Meyer社はルドルフ博士監修の高級レンズPlasmatシリーズに加え、主力製品となるレンズのラインナップを幅広く展開し、それらをZeissよりもやや安価に販売していた。この頃に同社の主任設計士の座についていたのはStephan Roeschlein(シュテファン・ロシュライン)という人物である。Roeschleinは1936年にSchneider社に移籍するが、それまでの間Primoplan シリーズやTelemegorシリーズの設計、Ariststigmat(広角モデル)の再設計など主幹レンズの開発を手がけている。 Roeschleinが去った後はPaul Schäfterという人物が同社の主任設計士となり1937年にPrimoplan 1.9/58を開発している。
  1939年に第二次世界大戦が勃発すると同社は軍需メーカーとしての性格を強め、照準器などを造るようになる。ドイツ敗戦の1945年、Hugo Meyer社は連合国によって解体され、工場の設備は賠償金の代わりとしてソビエト連邦に持ち出されてしまう。しかし、翌1946年には会社の再建が始まり、566個と少量ながらも写真用レンズの生産を再開、ドアの除き穴に取り付けるレンズなど民生品も製造するようになる。1947年には大判レンズの生産も再開、翌1948年に会社は東ドイツ政府によって国営化され、同社の正式名称はVEB Feinoptisches Werk Görlitzへと改称されている。ただし、レンズの方はその後もMeyer-Optikの商標名で売られていた。やがて戦後の復興景気が訪れ同社も本調子を取り戻すと、1952年にCarl Zeiss Jenaからコーティングの蒸着設備を導入し、それ以後は全てのレンズにコーティングを施すようになっている[注1]。Hugo Meyer社のこの時代の製品はまだ造りも良く、技術的に高い水準を維持していたが、その後1960年代に入るとTessarタイプやGaussタイプなど中核ブランドにCarl Zeiss的なレンズを据えるなど製品ラインナップの独自性が薄れてゆく。ブランドイメージは失墜し、Zeiss Jenaの廉価品を出すメーカーとして認知されるようになる。同社は1968年にVEB Pentaconに吸収されるが、レンズの方はMeyer-Optikの商標で1969年まで売られていた。VEB Pentaconは1990年のドイツ統一後、Schneiderグループの傘下に入っている。

[注1] Meyerのレンズにコーティングが施されるようになったのは第二次世界大戦終結の数年後からである。ZeissのTコーティングを模したV(=Vergütung)コーティングというものを採用していた。ただし、当初は全てのレンズにコーティングを施していたわけではなく、1952年にZeissからコーティングの蒸着設備を導入するまでコーティングの無いレンズも出荷していた。下記の文献によると、コーティング名の頭文字となったVergütung(直訳では「報酬」の意の語)には「ドイツ製(国産)のコーティング」という意味が込められているらしい。Vコーティングを採用した光学機器メーカーには旧東ドイツのルードビッヒ社やVEBフェインメス社、旧西ドイツのウィル・ウェツラー社やピエスカー社などがある。Tコーティングに対するサードパーティという位置付けだったのかもしれない。

参考:Large Format Lenses from the Eastern Bloc Countries 1945-1991, Arne Cröll 2011-2012



Hugo Meyer特集の第1回は1950年代に同社の主力製品の一翼を担った準広角レンズのHelioplanである。このレンズはもともとHugo Meyer社が1911年に買収したSchulze & Billerbeck社のブランドであった(Vade Mecum参照)。設計構成は4群4枚のDialyt(ダイアリート)タイプと呼ばれるもので、本ブログの前エントリーで取り上げたGoerz(ゲルツ)社のCelor(セロール)やArtar(アーター)、Dogmar(ドグマー)の系譜を受け継いでいる(下図)。Dialyt型レンズは収差の補正力が高く、特に色滲み(軸上色収差)と歪み(歪曲収差)に対する補正力が抜群に高いことから、第二次世界大戦後も製版や複写の分野で長く活躍していた。また、一般撮影においても高性能で幾つかのメーカーが戦前からレンズを供給しているが、その後Tessarとの競合関係により陶太され現在はこの分野から姿を消している。「レンズ設計のすべて」(辻定彦著)にはDialyte型レンズについてコンピュータシミュレーションの分析データに基づく詳しい解説があり、戦後に普及した新種ガラスを用いてこのタイプのレンズを再設計すると、収差的にはTessarに迫るたいへん優秀なレンズになると絶賛している。一度こういう評価を見てしまうとDialyt型レンズの実力がどこまで練り上げられていたのか自分の目で確かめてみたくなってしまうもので、さっそく戦後に開発された同型レンズを当たってみたところ、今回取り上げるHelioplanが1949年に再設計されたDialyteタイプのレンズであることを突き止めたのだ。

製品の箱に刻印されていたHelioplanの構成図をトレーススケッチしたもの。設計は4群4枚のDialyte型である。この構成は前群(左側)と後群(右側)のそれぞれが空気層を挟んだ新色消しレンズとなっているのが特徴で、絞りを中心に対称あるいはほぼ対称な構造になっている。空気層(空気レンズ)を利用して球面収差を強力に補正することにより高い解像力を実現している。凸レンズが2枚、凹レンズが2枚と数が釣り合いバランスが良好のため、ペッツバール和を容易に小さくできることから、四隅まで安定感のある画質を実現できる。一般撮影用に設計されたレンズでは遠方撮影時に発生するコマを抑えるために前・後群が非対称な構造になっており、HelioplanやGoerz社のDogmar F4.5がこの種の代表的な製品である。一方、製版用に設計されたレンズでは収差の補正基準が等倍撮影に設定されており、この時に歪曲が0%になるよう前・後群が完全対称な設計構成となっている。この種の代表的なモデルにはGoerz社のArtarがある。Dialytタイプの構成をTripletの発展型と捉える考え方もあるが、レンズの曲率を緩めるために空気層を大きく空けるTripletとは空気層の利用方法(したがって設計理念)が大きく異なる。収差図を見ると球面収差、色収差はほぼ皆無のレベルで歪曲も大変小さいので、このタイプの構成が引き伸ばし用レンズに用いられることが多いのもうなずける。像面湾曲の膨らみが少しあるが、非点収差は良好に補正されている。コマ収差も悪くない(「レンズ設計のすべて」 辻定彦著 参考)
重量(レンズヘッドのみ)38g, 絞り羽 14枚, 焦点距離75mm, 絞り値F4.5-F22, フィルター径 25.5mm, 光学系の構成 4群4枚(Dialyt型),  ノンコートレンズ, 本レンズは6x6cmの中判イメージフォーマットをカバーし35mm判換算で41mmの焦点距離に相当する準広角レンズである。レンズ名はギリシャ語の「太陽」を意味するHeliosとドイツ語の「平坦」を意味するPlanを組み合わせたのが由来とされている。

Helioplanは1920年代の中頃から1952年まで生産されたHugo Meyer社の主力ブランドである。戦前に造られた前期型と1949年に再設計された後期型に大別される。前期型としてはダイヤルコンパーシャッター搭載の一般撮影用のモデル(中・大判撮影用)と真鍮製バーレルレンズ(エンラージングレンズ)の2種が供給されていた。この時代の製品名はHugo Meyer Doppel Anastigmat Helioplanと表記されている。その後、1949年の再設計で後期型にモデルチェンジし、新しいガラス硝材の導入によって描写性能が向上している。私の把握している範囲であるが、戦後に販売された後期型のHelioplanには40mm 55mm 75mm 105mm 135mm 210mmの6種類の焦点距離のモデルが存在している。このうち焦点距離40mmのモデルは35mmフルサイズ用(M42マウントとExaktaマウント)、75mmのモデルは中判用(メントールなどの中判カメラ)、135mmと210mmは大判用として市場供給された。なお、焦点距離40mmのモデルは戦後に短期間だけMeyer Gorlitz Weitwinkel Doppel Anastigmatの名称で売られていた時期がある。Exakta用広角レンズという位置付けで一定の需要が見込まれていたのであろう。

入手の経緯
本レンズはeBayを介し2012年11月にロシアのカメラ屋から200ドルの即決価格(送料込みの総額215ドル)で落札購入した。このセラーは過去の取引件数が2060件でポジティブ・フィードバック100%(ニュートラルな評価すらない)と極めて優秀だ。商品の状態はエクセレントコンディションで「絞りはスムーズに動く。ガラスにキズ、拭き傷、カビ、ホコリの混入はない。純正キャップが付く。」とのこと。クモリとバルサム切れについて触れていないが、このセラーの他の商品を見る限りいつもの事のようなので問題なしと判断した。写真で見る限り概観は非常に良好で新品同様。デッドストックの未使用品のようにも見える。2週間後に届いた品はやはり記述以上に素晴らしく、僅かなホコリの混入と絞り羽の油染みを除けば新品同様と言っても過言では無い素晴らしい状態であった。ホコリはブロアーで簡単に除去できたので新品同様の状態である。eBayの中古相場は50-150ユーロくらいであろう。

M42マウントへの変換
私が入手した75mmのHelioplanはヘリコイド機構の省かれたレンズヘッドのみの製品である。元々は蛇腹カメラなどに搭載され用いられていたレンズなのであろう。一眼レフカメラやミラーレス機の交換レンズとして用いるには簡単な改造を施しフォーカッシング・ヘリコイドに搭載する必要がある。本品はマウント部がM32のスクリューネジになっているので35mm-37mmステップアップリングで土台をつくり、その上からM42リバースリングアダプターを被せることでM42フォーカッシングヘリコイド(BORGのM42ヘリコイド【7842】)に搭載することにした。ステップアップリングの内径がM32のスクリューネジよりも極僅かに小さいようで、そのままではきつくて装着できない。棒ヤスリなどでステップアップリングの内側を削り、内径を僅かに広げておくとよいであろう。

ステップアップリング(35-37mm)で土台をつくり、その上からM42リバースリングアダプターを填める。これでM42スクリューネジに変換できる

M42に変換後はそのままOASYS M42 HELICOID【7842】に搭載して完成

撮影テスト
HelioplanはDialytタイプとしては極稀な戦後設計のレンズである。ガラス硝材の改良により安定感のある高い描写性能を実現している。ピント部は四隅まで充分な解像力があり、ハロやコマ、色収差は極僅かでヌケが良い。ノンコートレンズのためコントラストは高くはなく、曇天時ではとても軟らかい階調描写になる。晴天時においてもコントラストは強くなり過ぎずシャドーへの落ち方がなだらかで目に優しい描写傾向を維持している。発色はノーマルで淡泊過ぎず適度な色ノリである。前エントリーで取り上げた同型レンズのDogmarに比べるとボケ味がやや異なるようで、Dogmarは後ボケが硬くザワザワと煩くなり2線ボケ傾向もみられたが、Helioplanではボケが比較的滑らかで2線ボケも目立たない。ただし、距離によっては開放で僅かにグルグルボケが出る。私個人としてはかなり好きな写りである。以下作例。

CAMERA: EOS 6D
LENS HOOD: 内径20mm程度の自作フード(フィルター径25.5mm)
F6.3, EOS 6D(AWB): ピーカンの天気だがコントラストの低いレンズのためか階調が硬くならず、シャドー部はなだらかさをキープしている。コマがよく補正されておりスッキリとヌケの良い写りだ
F6.3, EOS 6D, AWB: こんどは曇天時での作例。中間階調が豊富で目に優しい軟らかい描写が好印象である

F4.5(開放), EOS 6D(AWB): 開放でもピント部はシャープだ。カラーバランスはノーマルで色のりもヌケもよい。距離によっては四隅にややグルグルボケが出る事もあるが、一段絞ればボケ味は常に穏やかである


F11,  EOS 6D(AWB): 近接撮影でも、このとおりに高解像でしっかりと写る

独特の製品ラインナップを展開し他社との競合を避ける徹底した企業理念を貫いた戦前および戦後間もない頃のHugo Meyer社。このような経営方針に至ったのは1919年から同社に14年間在籍したRudolph博士の影響からだったのではないだろうか。博士はかつてCarl Zeissに在籍し、同社の企業戦略や製品開発に関わった経験から、大企業との戦い方や中小メーカーの取るべき立ち位置を深く理解していた人物である。Zeissの経営方針(不況時に傘下のパルモス・バウを切り捨てた)に反発し同社を退職したと言われており、後に自分は大会社よりも中小メーカーに向いていると61歳でHugo Meyer社へ再就職を遂げた経緯がある。戦前のHugo Meyer社はTessarタイプやPlanarタイプなどCarl Zeiss的な定番レンズの構成に頼る事なく、特色ある製品を展開することで一定の成功を収めていた。TessarやPlanarを発明した張本人であるRudolph博士がHugo Meyer社に在籍し、同社の経営方針に一定の影響を与えていたからであるに違いない。