おしらせ


2012/08/21

コンタックス・ゾナーの末裔達2:LZOS MC Jupiter-9 85mm F2 (M42)

ロシア製ポートレートレンズの中で絶大な人気を誇るのが今回取り上げるJupiter-9(ユピテル9/英語名はジュピター9)である。レンズが登場したのは1950年で、Carl ZeissのContax版Sonnar(3群7枚構成・85mm F2)をベースに設計された。巷ではSonnarをそのまんまコピーしたレンズと誤って解釈される事が多いが、厳密にはSonnarを再設計した改良レンズである。記録にはこのレンズの初期のモデルにZK-85というコードネームのプロトタイプが存在し、ドイツ産のガラス硝材が用いられていたと記されている。このプロトタイプはまさにSonnarの完全なコピーであったと推測できる。モスクワ生まれのロシアン・ゾナーがツァイスのオリジナル設計を離れ、独自の進化を遂げ始めたのは、いつの頃だったのであろうか?

安くてよく写るロシア製レンズの魅力を
世に広めた銘玉ユピテル9

第2次世界大戦の戦勝国として旧東ドイツを占領したロシア(旧ソビエト連邦)は、カール・ツァイスの技術力を手に入れ、自国のカメラ産業を発展させた。Zeissが戦前から保有していた発明特許は戦勝国同士の取り決めにより無効化され、戦後のロシアではビオター、ゾナー、ビオゴン、フレクトゴンなどカールツァイスブランドのコピーレンズがロシア製品として次々と生み出されていった。ツァイスのイエナ工場が保有していた設備はマイスター(レンズ設計技師)と共にその一部がモスクワ近郊のKMZ(クラスノゴルスク機械工場/Krasnogorski Mekhanicheskii Zavod)へと移され、マイスター達には原則5年、ロシアでレンズの設計や生産に関わる技術指導の義務が課せられた。それから間もなくのことである。ZeissのW.Merte(メルテ)が設計したBiotarはBTK(Biotar Krasnogorsk)に姿を変え、L.Bertele(ベルテレ)が設計したSonnarとBiogonはそれぞれZK(Sonnar Krasnogorsk)とBK(Biogon Krasnogorsk)、H.Zollnar(ツェルナー)のFlektogonはFK(Flektogon Krasnogorsk)へとロシアの地で造り変えられていった。いわゆるツァイス製品を模したロシア製コピーレンズの原点である。これらの多くは光学系の一部または全部にドイツ産のガラス硝材(Schott社から接収したもの)が用いられており、FKを除き戦前からのイエナガラスに頼る設計であった。そこで、技術指導を受けたロシア人技師達はレンズを次々と再設計し、ロシア国内で量産可能な新種ガラスを用いた設計へと変更していった。その後、BTKはHelios(ヘリオス), BKとZKはJupiter(ユピテル), FKはMIR(ミール)へと改称され、ロシア各地の工場で大量生産されるようになった。今回取り上げるJupiter-9(ユピテル9)もそうした類のレンズで、KMZの設計者M.D.Maltsevが1940年代後半に焦点距離85mmのSonnar(あるいはZK-85)を再設計し、1949年に発売された大口径中望遠レンズである[文献1]。Maltsevは有名なテッサー型パンケーキレンズのIndustar 50を設計した人物でもある。JupiterシリーズにはJupiter-3 1.5/50, jupiter-8 2/50, Jupiter-9 2/85など戦前のコンタックス版ゾナーを起源とする3種のレンズが存在し、設計はいずれもMaltsevと記録されている。生みの親が同じなので「ロシアのユピテル3兄弟」と言ったところであろうか。

参考文献1: KMZ(ZENIT)の公式資料: КАТАЛОГ фотообъективов завода № 393(1949)

ロシアンゾナーのユピテル3兄弟。後列左はJupiter-9 85mm F2(Contax-Kiev mount)でLZOS製, 中央手前はJupiter-3 50mm F1.5(Leica-Fed L39 mount)でValdai製, 後列右はJupiter-8 50mm F2(Leica-Fed L39 mount)でKMZ製となる。なお、レンズ名の由来はローマ神話の最高至上の神の名ユピテルである。



Jupiter-9の光学系のスケッチ(G.O.I. 1970 catalogよりトレースした)。ソビエト製レンズに詳しいSovietCams.COMによると、Jupiter-9の前身はKMZが1948年から1950年まで生産したZK-85というレンズであり、このモデルには光学系の一部あるいは全部にドイツ産のガラスが用いられていたと記されている。硝材が同じなら屈折率が同じになり、Sonnarと同一の設計も実現可能である。こうしたことから、ZK-85はSonnarのオリジナルと同一設計である可能性が高い。一方、現在KMZを傘下に持つZenitのホームページにはショット社から接収したドイツ産の硝材(イエナガラス等)のストックが1953年に枯渇してしまい、Jupiterシリーズにはロシア産のガラス硝材に置き換える再設計(リム形状の変更)が施されているとも記されている。これらの断片情報を統合するならば、ロシア製ゾナーがツァイスのオリジナル設計を離れ独自の進化を遂げ始めたのはZK-85よりも後のJupiter-9リリース時から、あるいは1955年前後のモデルチェンジからということになる

Jupiter-9は1950年にKMZ社が発売し、まずはLeicaスクリュー互換のZorki(ゾルキー)マウント用と旧Contaxマウント互換のKiev(キエフ)マウント用の2種が市場供給された。更に1951年には一眼レフカメラのZenit用(M39マウント)が、やはりKMZから登場している。初期のモデルはどれもシルバーカラーのアルミ鏡胴モデルである。なお、レンジファインダー機向けに造られたZorki用とKiev用のモデルは最短撮影距離が1.15mであるのに対し、Zenit用のモデルでは光学系が同一のまま0.8mに短縮されている。KMZは1950~1957年にJupiter-9を複数回モデルチェンジ(マイナーチェンジ)しているが、1958年にレンズの生産をLZOSとARSENALに引き継ぎ、ムービーカメラ向けのAKS-4マウント用など新モデルを追加投入する場合を除いて基本的にはJupiter-9を造らなくなっている。LZOSからは1958--1988年にZorkiマウント用とKievマウント用が生産され、その後、対応マウントのラインナップはM39マウント用(1960年代)、AKS-4マウント用(1960年代~1970年代)、1970年代からはM42マウント用にまで拡張されている。1980年代半ばからガラス表面にマルチコーティングを施したモデルが従来の単層Pコーティング(Pはprosvetlenijeの意)を施したモデルに混じって造られるようになり、その割合が少しづす増えていった。一方、Arsenalからは1958--1963年にKievマウント用が生産され、その後は1970年代にKiev-10/15マウント用などが生産されている。なお、1963年からは各社ともJupiter-9のカラーバリエーションにブラックを追加し、その後、シルバーカラーは1968年に製造中止となっている。最後まで生産されたモデルは今回紹介するLZOS製のM42マウント用で、ごく最近に製造されたものとしてはeBayで2001年製の個体を確認している。また、Blog読者の方からは2002年製の個体を入手したとの情報もいただいている。この最終モデルも現在は製造中止となっている。MC Jupiter-9の新品を販売していたロシアの通販店(例えばこちら)でもオールドストックの在庫が底をついたようで、現在は中古品のみを販売している。それに連動し、eBay等の中古市場では取引価格が急騰している。
フィルター径:49mm, 絞り羽:15枚, 質量(カタログ公称値):380g, 焦点距離:85mm(精密値84.46mm), 最短撮影距離:0.8m, 解像力:中央33 LINE/mm, 周辺部: 18 LINE/mm, 光透過率: 0.85,マウント規格はM42, 本品はLZOS(ルトカリノ光学硝子工場)が生産したjupiter-9シリーズの後期型である


入手の経緯
今回はJupiter-9の撮り比べをしたいという都合があり、製造年代の異なる3本の個体を入手した。このうちの一本はガラス表面に多層光反射防止膜(マルチコーティング)が施された1993年製のMC Jupiter-9で、2011年11月にウクライナ最大手の中古カメラ業者ペテルズブルグ・ディールから180ドル+送料15ドルの即決価格で購入した。商品についてはMINT ITEM(美品)との触れ込みで「ガラスはクリアでクリーン。傷、カビ、クモリはなく全エレメントがクリア、絞りコントロールとヘリコイドリングは正常。フォーカスは精確」との解説であった。同業者と100件以上の取引歴がある知人によるとNEWと記された商品以外は要注意とのことであったが、手元に届いた品はチリやホコリすらほとんどない極上品であった。MC Jupiter-9は最近になって新品(オールドストック)の在庫が底をつき、人気商品ということもあり、中古相場は急激に上昇してしまった。eBayでは状態の良い品が200ドル弱の値で取引されている。



撮影テスト1:デジタル撮影
カメラ Nikon D3 digital+ハクバ製ラバーフード(補正レンズ無しアダプターを使用)
Jupiter-9の持ち味は美しい階調描写と安定感のある整ったボケであろう。ゾナータイプならではの穏やかで優雅な描写力を大いに堪能できる魅力的なレンズだ。前エントリーで取り上げたContarex版Sonnarは開放絞りからキッチリとシャープに写るレンズであったが、Jupiter-9はこれとは対照的で開放で像がややソフトになるのが特徴である。絞りを開けるとハイライト部の周囲にはハロが発生し、画面全体に薄いベールを一枚被せたようなフレアっぽい写りになるなど、開放では使いこなす場面がやや限られてしまうものの、少し絞るとかなり良く写るレンズへと一変する。1段絞るF2.8ではフレアが消え、ピント部のハロも目立たなくなる。F4まで絞るとアウトフォーカス部のハロも消え、全体にヌケの良い像が得られるようになる。スッキリとした像を望むならばF2.8、あるいはF4からが実用域となるだろう。コントラストは開放で低く、一段絞ると急に高くなり、そこから先は絞るほど緩やかに向上する。ただし、深く絞る場合にも中間階調は依然として豊富で、軟らかい階調描写が損なわれる事はない。発色は開放で淡く、一段絞った辺りから急に鮮やかになり、コントラストの向上と共に濃厚になる。ただし、黄色に転ぶ傾向があり、フィルムで撮る場合には撮影結果が温調な雰囲気に包まれる。デジタルカメラで用いる場合にはAWB(オートホワイトバランス)機能による補正が働くため、カラーバランスはフィルム撮影時よりもノーマルだが、依然として温調寄りの発色傾向は残っている。アウトフォーカス部の像は常に安定しており、グルグルボケや放射ボケ、2線ボケとは無縁の穏やかなボケ方である。ボケ味については前回のコンタレックス版ゾナーにも同様の傾向が見られたが、同クラスのダブルガウス型レンズのようなブワッと力強く拡散するようなものではなく、やや控えめのフワッとしたボケ方となる。例えるなら羽毛のようなボケ方をするダブルガウスに対して、jupiter9では少しボリューム感のある綿のようなボケ方に見える。ゾナー好きの方々はこの辺りをどう捉えているのだろうか。なお、手元にある何冊かの資料本では、Jupiterシリーズ(Jupiter-3/8/9)の描写について、本家ゾナーに比べて結像が柔らかくソフトで、絞り込んだ時の階調も軟らかいと評されている。
F2.8 Nikon D3 digital(補正レンズ無しアダプター使用), AWB: 開放ではハロやフレアが発生し像もソフトでコントラストは低下気味になるが、一段絞るとコントラストが急に上がり、ピント部はシャープになる。こちらに開放絞りとF2.8における比較写真を掲示しておく。ボケも綺麗でゾナーらしい素晴らしい描写力である。定評のあるレンズであることがよくわかる

F4  Nikon D3 digital, AWB: 2段も絞ればハロやフレアは完全に消え、ヌケのよいスッキリとした像になる


F4 Nikon D3 digital, AWB: このレンズは階調描写が大変美しく、濃淡の変化がなだらかだ



F2.8  Nikon D3 digital, AWB:  一段絞ったF2.8でもアウトフォーカス部は依然として滲み、オールドレンズらしい柔らかい描写表現が可能だ




F4  Nikon D3 digital, AWB: マルチコートのレンズらしく、発色は鮮やかで色のりは良好
F2.8, Nikon D3 digital, AWB:  ボケがきれいすぎて絵画に見える。ある意味ですごいレンズだ
F2.8Nikon D3 digital, AWB:  ........。
F2(開放)Nikon D3 digital, AWB:  絞り開放ではコントラストの低下から発色が淡くなりがちだが、ややアンダー気味に撮れば色濃度が上がり、見た目には悪くない画質だ
撮影テスト2:フィルム撮影
カメラ Yashica FX-3 super2000+ハクバ製ラバーフード
フィルム Kodak ProFoto XL100
フィルム撮影での描写とデジタル撮影での描写が、これほどまでに大きく変わるレンズも珍しい。ネガフィルムを用いた撮影の場合、階調描写は総じてデジタルの時よりも軟らかくトーンがやさしくなり、私の思い描いているゾナー系レンズの描写イメージにより近くなる。この美しい階調描写こそがゾナーの真価ではないだろうか。ジュピター9のようなゾナー系レンズの光学系には硝子同士の貼り合わせが3~4面もあり、他のレンズには無い大きな特徴になっている。この大量の貼り合わせ面が光学系全体に弱い内面反射光を緩やかかつ均一に送り届け、豊かな中間階調を生み出しているというのがゾナーに対する私の見方だ(もちろん根拠は無いので突っ込み所ではあるが、敢えて言い切ってしまうのは私の性分からだ)。発色はフィルム撮影の方がデジタル撮影よりも黄色に転びやすく温調である。おそらくフィルム撮影の方が本来の色であり、デジタル撮影ではオート・ホワイトバランスの影響でノーマルな発色に補正されるためであろう。

F2.8 銀塩撮影 Kodak ProFoto XL100: このとおりにフィルム撮影の方が発色はより黄色に転びやすい
F4 銀塩撮影 Kodak ProFoto XL100:うーん。やはり、フィルム撮影時の方が階調描写は軟らかい印象を受けるが、いかがであろう
F4 銀塩撮影 Kodak ProFoto XL100: 結像は柔らかく階調も軟らかいが、ソフトフォーカスレンズのようなエフェクト的なやわらかさではなく、写真レンズとして許容できる最低限の解像力をきちんと備えた上での天然のやわらかさだ。こういう写りを提供できるレンズはこれからますます貴重な存在になるのではないだろうか

描写力に個体差はあるのか?
Jupiter-9の描写力には大きな個体差(当たり外れ)があると噂されている。こうした噂は一人歩きをしながら、これから購入を検討している人々を大いに悩ませる。根拠が示されてない以上は単なる迷惑でしかない。この種の噂はロシア製品の品質に対する偏見から生まれている可能性も大いに考えられるので検証しておく必要がある。以下では製造年代の異なる3本のJupiter-9を用いてシャープネスとコントラストに個体差があるのかどうか、肉眼による検査を試みた。検査に用いた個体は1986年製のシングルコーティング版が1本、1990年製と1993年製のマルチコーティング版がそれぞれ1本ずつである。光学系の状態は1986年製と1993年製の2本が新品同様、1990年のものには前玉の周辺部に写りには影響のない極薄い汚れ(メンテ時の拭きムラ?)がみられた。下に示した作例に対して3本のレンズを絞り開放のまま同一条件で使用し、中央部の拡大画像を比較することで描写力に差があるかどうかを検証してみた。


なお、撮影テストは同一条件で2回実施し、2回のテストはカメラを三脚に再設置し、レンズをマウントし直すところからはじめるなど、多少面倒ではあるが撮影条件に左右されない試験結果を得ることができるよう配慮している。ピント合わせはライブビューの拡大機能を用いてジックリと時間をかけて行っている。3本のレンズの比較から最もメリハリのある結果が得られたのは1993年のマルチコーティング版(最下行)で、2回のテストともコントラスト性能はトップの成績となった。一方、解像力ではシングルコーティングの1986年製と1993年製が2回のテストともに良好な結果を示し、1990年製はややぼんやりとした像になった。興味深いのはハロの出方で、白文字のロゴの滲み方がレンズごとに異なるのである。1986年製と1990年製の2つのモデルでは右斜め上方に滲んでいるのに対し、1993年製は左斜め上方へと滲んでいる。レンズの中央部で撮った像なので、滲み方は等方的になるのが理想だが、3本のレンズはどれも光軸が僅かにずれているのかもしれない。ちなみに、ゾナーのような3枚接合を持つレンズの場合には光軸合わせ(芯だし)に高い精度の製造技術が必要であることが知られている。


上に示した比較検査からJupiter-9の描写力(解像力、コントラスト、ハロの出方)には肉眼でも識別できるハッキリとした個体差(当たり外れ)が検出できた。この個体差からロシア製品の品質について高いだの低いだのを評価することはできない。それには、日本製レンズやドイツ製レンズを用いて相対的に評価する比較検査が必要になるためだ。なお、この滲みは各個体とも一段絞るF2.8で完全に消える。

MC Jupiter-9は値段のわりによく写るコストパフォーマンスの高いレンズだと思う。開放では像が甘く、使い道は限られてしまうが、F2.8からの描写力については個体差なんてなんのその。ゾナーの優れた描写力を充分に楽しむことができる。3群7枚のゾナータイプはドイツ製や日本製なども存在するが、どれも中古市場では高価なので、ゾナーの写りを安く手に入れたいならばMC Jupiter-9はオススメの一本だ。ところで、いつも疑問に思うことだがJupiter-9の9番のように、ロシア製レンズのブランド名の後ろにつく番号はどうやって決まっているのだろうか?どなたかご存じの方がおりましたら、ご教示いただけると幸いです。


2012/07/26

コンタックス・ゾナーの末裔達1: Zeiss Ikon, Carl Zeiss Sonnar 85mm F2(Contarex version) modified M42


収差を使って収差を封じる。そんな反則な!

ツァイス・イコン最後の怪物

コンタレックスの眼玉

Zeiss Ikon社のルードビッヒ・ベルテレ(Ludwig Jakob Bertele)[1900-1985]が戦前に発明したSonnar (ゾナー)は、コーティング技術が実用化されていかった時代に、空気境界面を徹底的に減らすことで内面反射光を抑さえ、高コントラストな画像を得ることを可能にした画期的なレンズであった。レンズは光学系に貼り合わせ面を多く持つのが特徴で、トリプレットを設計の原点に据え僅か3群の構成を貫きながら、大口径を実現している。数あるSonnarシリーズの中でも旧西ドイツのZeiss Ikon社が戦後に開発した85mm F2のモデルは戦前にBerteleが設計したオリジナルの流れを汲み、一眼レフカメラの時代にも生き残った特別な存在で、同シリーズの中で最大の口径を誇るKing of Sonnar(キング・オブ・ゾナー)といった位置づけである。このレンズは1958年に登場した旧西独Zeiss Ikon社の超高級一眼レフカメラContarex(コンタレックス)に搭載され、1958年から1973年までの15年間で7585本が生産されている。しかし、Contarexがあまりにも高価なカメラであったため実用性に乏しく、カメラもろともプロフェッショナルユーザーには広まらなかった。
今回取り上げるContarex用Sonnar 85mm F2は旧西ドイツで戦後に再建された新生Zeiss Ikon社が総力を挙げて開発した最高級の大口径中望遠レンズである。新種ガラスを用いて戦前のコンタックス版Sonnarを再設計し、解像力とヌケの良さを向上させている。高いコントラスト性能と鮮やかな発色、開放付近でのなだらかな階調描写、絞った時の高いシャープネス、安定感のある美しいボケなど、非の打ち所ない優れた描写力に対して「コンタレックス・ゾナーこそ史上最高のレンズ」と今も称賛の声は絶えない。製造から半世紀もの年月が経過しているというのに・・・。

ゾナーというレンズの名称が何を由来としているのか実のところハッキリとはしていない。ドイツ語のSONNE(太陽)を由来にしているという説とZeiss Ikon社の設立母体となったコンテッサ・ネッテル社で既に生産されていたSonnarの工場がSonthofen(ゾントホーフェン)市の郊外にあった事に由来にしているという2つの説が有力視されている(「プロ並みに撮る写真術II」日沖宗弘著勁草書房1993年








TripletからSonnarへと続く進化の経緯
SonnarはZeiss Ikon社のBerteleが改良を重ね、ほぼ1人で発明したレンズである。その原点となったのはCooke社のDannis Taylorが1894年に開発したTriplet(上図の最左列)である。Tripletは僅か3枚の構成でサイデルの5収差を全て補正できることから世に広まったが、光学系のバランスが凹1枚+凸2枚と悪く、強い凹レンズを用いても非点隔差による周辺画質の悪さ(広角部の解像力やグルグルボケ)を十分に改善できないため、画角を広げるには限界があった。しかし、新色消しレンズとは無縁であることが幸いし、中央部の解像力はテッサーよりも高く、画角の小さな長焦点レンズには依然として有用な設計であったため、後に様々な改良が試みられた。その一つがTripletの最前部(第一レンズ)を2枚に分割し大口径化を実現したErnostar 100mm F2(上図の左から2列目)である。このレンズは1922年に当時Erneman(エルネマン)社に在籍していたBerteleとKlughardt (クルーグハルト)が発明し、世界で最も明るいレンズということで話題となった。Ernostar(エルノスター)というレンズの名称には「エルネマンの星」という意味が込められている。このレンズもTriplet同様、周辺画質に大きな課題をかかえていたため、Berteleらは引き続きErnostarrの改良を重ね、様々な設計バリエーションを開発している。中でも1924年に開発したErnostar 100mm F1.8(上図の左から3列目)はイエナガラスを用いて第2レンズを3枚の接合レンズに置き換えた異様な姿をもつ進化形で、後にBerteleが発明するSonnar(上図・最右列)の直接の祖先と言われている。この種の3枚接合を持つレンズは芯出しの難しさから高い精度の製造技術が要求されるなど、当時としては難易度の高い設計であったが、空気境界面を減らしコントラスト性能を向上させながら、同時に広角部の画質(ペッツバール和)を改善することもできたため、効果は絶大であった。この後にBerteleは3枚接合部を前群のみならず後群にまで配置した過激なレンズ構成を考案し、Sonnarとして世に送り出している。Sonnarはまず1931年に後群を2枚接合にした50mm F2のモデルがContax用として発売され、翌1932年には後群を3枚接合にした大口径版の50mm F1.5、更に翌1933年には後群が2枚接合で画角を85mmに抑えたF2モデルの高描写版で、最大口径を誇る85mm F2のモデルが追加発売されている。85mm F2のモデルは戦時中の再設計で後群がF1.5のモデルと同じ3枚接合へと変更され、画角的にも口径比的にもSONNARシリーズの高描写版という位置づけで再リリースされている。コーティング技術がまだ実用化されておらず、レンズの設計に自由度が乏しかった時代に、このような巧みな貼り合わせを組み込んで設計に独自性が発揮されていることで、ベルテレは天才的な設計者と評されている。今回ブログで取り上げるContarex用ゾナーは、Berteleがイエナガラスを用いて戦時中に設計した85mm F2のモデルを戦後の1951年に新種ガラスを用いて再設計した改良レンズである(特許の開示は1952年1月)。なお、Erneman社は1926年にBerteleもろともZeiss Ikon社の設立母体として吸収合併されている。

重量(改造品の実測)465g, 最短撮影距離 約0.7m, フィルターはバヨネット方式(特殊規格), 絞り羽 9枚構成, 絞り値 F2-F22, 光学系の構成は3群7枚, カラーバリエーションはシルバーとブラックの2種がある。ebayでのレンズの相場(2012年)はおよそエクセレントコンディションの個体で1200ドルから1300ドル。MINTコンディション(美品)の個体では1500ドル以上で取引されている。

Contarex用Sonnar 85mm F2の設計。凹レンズを赤、凸レンズを黄緑で着色している。光学系は一見すると凸レンズが凹レンズよりも1個分多く、バランスが少し崩れているようにも見えるが、実は第2群の真ん中に挟まれている凸レンズは前後のガラスよりも屈折率の低いガラスなので、実質弱い凹レンズとなる。この点までも考慮すると、ゾナーは凹凸成分のパワーバランスが非常に良い設計である事が理解できる。光学系は3群7枚構成で、空気とガラスの境界が僅か6面しかなく、硝子同士の貼り合わせが4面もある異様な姿をしている。この光学設計に萌えるユーザーも多く、3群構成のゾナーは今も絶大な人気を誇る

撮影テスト
キャノンのレンズ設計者が書いた「レンズ設計のすべて」(辻定彦著、電波新聞社発行 2006年)には3群構成のゾナーについて詳細に記された一説がある。著者はゾナーの光学系について、同一仕様のダブルガウス型レンズに比べコントラスト性能では凌駕するが、解像力では一歩及ばないと述べている。
ゾナーの光学系には空気とガラスの境界が6面しかなく、これは高いコントラスト性能を誇るテッサーと同数である。コントラストを低下させる原因であるゴーストやハレーションは主に空気とガラスの境界面で多く発生するが、ゾナーにはこの境界面が少ないうえダブルガウス型レンズと比べてコマフレア(サジタルコマ)が出にくい特性を持つことから、コントラスト性能は非常に高く、発色は鮮やかである。テッサーとの格の違いを感じるのは開放絞りの付近(F2-F5.6)でみられるなだらかな階調描写であろう。光学系の構成図から明らかなように、ゾナーにはレンズ同士の貼り合わせ面が4面もあり、これらで発生する弱い内面反射光が光学系の隅々へと緩やかかつ均一に蓄積される。この独特の機構が絞りを開けた際には活発に機能し、豊富な中間階調を生み出すとともに階調の硬化を防止し、高コントラストでありながらも軟らかい表現を維持できるゾナーならではの特異な描写力を実現させている。一方、F5.6よりも深く絞り込むと内面反射光の減少により階調の硬化がすすみ、テッサー同様に鋭くシャープな描写へと変貌する。
解像力は同クラスのダブルガウス型レンズに一歩及ばない。これは、ゾナーに特有の補正の難しい球面収差(5次の球面収差)があるためである。この難易度の高い収差を攻略するために、Berteleは自らあみ出した独創的な収差補正法を実践している。それは、後群に大きく湾曲したストッパー面と呼ばれる貼り合わせ面(上図参照)を設け、ここから負の球面収差を故意に発生させて、先の5次の球面収差と相殺消去させるというものである。「毒をもって毒を制す」とまで評されたこの過激な補正法は、ろくにレンズ設計の教育を受けないままErnostarを開発してしまったBerteleだからこそ成し得た、型破りな設計技法だった。この補正法によりSonnarの画質は更に向上している。球面収差に球面収差をぶつけることで、ゾナーの描写力は高いところでバランスしてしまったのである。
なお、古いイエナガラスを用いて設計された戦前のゾナーは開放付近でハロやフレアが発生しやすく、色収差も目立っていたが、戦後に新種硝子を用いて再設計されたコンタレックス・ゾナーでは非点収差が大幅に改善し、球面収差もやや改善。ハロはほぼ完全に抑制され、ヌケがよくなり、解像力も向上している。コンタレックス・ゾナーは設計構成のバランスが良好で包括画角にも無理がないことから、大口径レンズによくあるグルグルボケや放射ボケとは全く無縁であり、周辺部まで安定した穏やかで美しいボケが得られている。ボケ味はダブルガウス型レンズのようなブワッと拡散する羽毛のようなボケではなく、どこかウェットで重量感のある綿のようなボケ方だ。発色はノーマルで癖などはない。
ゾナーは元々、近距離における収差変動が大きい設計のため、マクロ域の近接撮影は苦手なレンズのはずである。しかし、本レンズは最短撮影距離が0.8mと普通に寄れる設定になっている。これはどういうことなのかと開放絞りで近接撮影によるテストを多数試みたが、像が乱れたりハロがでたりということは一切なく、描写は常に安定していた。光学系の性能的に本来は50mm F1.5を狙えるレンズなので、新種ガラスを導入しながら設計仕様を85㎜ F2と控えめに抑えたContarex Sonnarは、画角的にも口径比的にもかなり余裕があるレンズなのであろう。こうした設計面での余裕が近接域での高い描写力につながっているだろうと思われるが、裏を返せば描写設計にこれくらいの余裕がなければZeissの最高級レンズとしては失格だったとも解釈できる。以下作例。

撮影機材
カメラ:Nikon D3 digital
レンズ:Carl Zeiss Sonnar 85mm F2(改M42 modified from Contarex mount)

F2  Nikon D3 digital AWB: ハロやフレアが全く出ない!。戦前のゾナー、ジュピター9 etc・・・。私の知っている他のゾナー型レンズ(85mm F2)には開放でここまでキッチリと写るレンズは無い。見事としかいいようがない 
F4 Nikon D3 digital, AWB: ギラギラとした晴天下での撮影にもかかわらず階調描写はとてもなだらかで黒潰れはない。コントラストは高く、発色は鮮やかで色のりは大変良い
F4 Nikon D3 digital AWB: 逆光でのショット。フードは装着していないもののハレーションやゴーストが出る気配は全く無い。逆光に強いレンズという印象を持った
F2 Nikon D3 digital AWB: 中間階調が豊富でシャドー部のねばりやハイライト部ののびが素晴らしい
F2.8 Nikon D3 digital AWB: こちらも背景の濃淡がなだらかに変化している 
 F2(開放) Nikon D3 digital こういうシーンを戦前設計のゾナーで撮影すると、ハイライト部からは必ずフレアがでるのだが、改良版のコンタレックス・ゾナーではそういうことが一切ない
F8 Nikon D3 digital AWB:  絞り込めば硬階調となり、近接撮影においてもメリハリのあるシャープな像が得られる

F8 Nikon D3 digital, AWB: こちらは最短撮影距離での作例。コンタレックス・ゾナーは非点収差がポートレート域で最小になるようチューニングされている。ならばボケ味が乱れるのは近接域以外には考えられないと待ち構えていたが、結果は前ボケ・後ボケともに良く整っており、像の乱れは全く見られなかった
少し前に取り上げたCarl Zeiss JenaのCardinarは本ブログでは初めてのゾナー型レンズ(3群構成)となりました。このレンズを手にして以来、ゾナーの描写力、特に階調描写の素晴らしさに魅了されてしまいました。これからもゾナー型レンズを紹介していこうと思いますので、とりあえずはロシアのJupiter-3/ 8/ 9を入手してあります。これ以外にも是非これはというゾナータイプ(3群構成)のレンズがありましたら、ご紹介いただければ幸いです。